たの葉の物思い 

本を読んで、たの葉が思ったことです、ときどき、それ以外

「高野聖・眉かくしの霊」 著・泉鏡花

岩波文庫

  泉鏡花の書く世界。ずっと、わたしが好きそうだと、思っていた。だけど、実際に読んだことはなかった。以前、少し読んで、文章が難しい、お馬鹿さんなわたしには読みにくいと感じたからだ。だけど今回、読んでいくと、文章や言葉の、癖のようなものに、慣れてきた、ような、気がする。立ち止まって考えるより、とにかく、読もうと思った。

 わたしは、黒い髪の、着物を着た、美しい、大人の女性が、好き。堪能した。ただわたしは、強くてかっこいい大人の男性も、見たいのだけど…。

高野聖

 題名が、良い。

 僧侶が語る。だけど、聞こえてくるのは、力強い念仏でも厳かな説法でもなく…。

 岩の向こう、どこまでも続く草深い径。叢から現れる蛇、蛇が通る路。暗い森、蛭が生る木々、蛭が泳ぐ泥。

 一軒の山家。美しく、清しく、やさしく、現れた婦人。裏の崖の綺麗な流。花の中へ包まれたような。豊な、ふっくりとした膚。与し易い、そして犯すべからざる。あるときは愛嬌と嬌態、あるときは神か魔か。

 いろいろな表情を見せる不思議な女性に引き付けられて、亭主とか馬とか蝙蝠とか猿とか、気にしていなかった。盆を膝に構えて肘をついて頬を支えて、嬉しそうに見ているって、可愛いなあ。白桃の花が流れる。引き返そうとしたこと、共感する…。

  だけど、深山の孤屋の、謎と魅惑は、「魔」だった。妖しい真実に、うっとり…。

 最後の一文が、良い。題名に、見合う、似合う。目が覚めて、理性を思い出し、清々しく、日常に、帰った。

 ただ、美しい恐ろしい女性、退治されませんように! いつまでもいつまでも、そこにいて、男たちをもてあそんでいてください…。

「眉かくしの霊」

 夜、暗くした部屋、布団の中で寝そべりながら、手元の読書灯だけで、読んでいたら、怖くなった…。泉鏡花のお化け物話、見くびっていたかも…。

 そういえばわたしは、欧米のホラー映画は、なんとか見ることができるけれど、日本の、東アジアの、ホラー映画は、駄目、無理、絶対見られない絶対見ないという、人間でしたよ…。

 旅情を、楽しんでいた。弥次喜多のゆかりの地。旅籠屋、熊野の皮、大火鉢の青い火さき。つぐみの料理。つぐみを食べた芸者の赤い口、山の化身のような、怖いと思わなかった、妖しい綺麗な情景だと。澄み切った空の冬の陽、白い雪、鯉の赤と紫。旅情を、楽しんでいたのだ。

 蛇口の水の音、さらさらとした水の音、何気なく読んでいた。ちゃぶりと、湯を使う音。巴の提灯。ひやりとした。そして、姿見に向かった後ろ姿の女。美しい黒い髪、円髷の、白い手で化粧をし、こちらを向く。映像が、まぶたに浮かんでしまい、ぞくりとした…。

 山王様のお社。可恐い、お美しい、御婦人、眉をおとした。桔梗の池の奥さま。由来や事情はよくわからない、けど、想像して、思い浮かべると、怖くて美しくて、胸に沁みた。

 さらさら。川の音。蛇口の音。目の前に現れた提灯。桔梗の池の奥さま、いえ、お艶さん。眉かくし。眉を剃っているイコール既婚者の女性。女心を表していたのね…。

 女の魅力に比べて。画師さん、ひどいよ。画師さんが来ていれば、お艶さんは死ななくてもよかったのに。学士先生も。若夫人を、許してあげて、庇ってあげて、母親から、助けてあげてください…。

 

「地獄変・偸盗」 著・芥川龍之介

新潮文庫)短編集

 なぜ、わたしは今まで芥川龍之介の小説を読まなかったのだろうかと思った。 王朝物、好きなジャンルだ。平安時代、好きな時代じゃないか。

 昔、芥川龍之介の、人生や人間性について書かれた本を読んだことがあり、それ以来なんとなく、敬遠していた…。

「偸盗」

 最初に、日照った往来の、乾いた空気を、感じた。そして都、名ばかりの都で、武士や女車、文使いと行き交う、悪人たちを、知った。堕ちた人生と重い心に、引き込まれていった。恋人たちの企てに、冷やりとした。

 亡びていくような、荒んださびしい町の一隅に。屍骸と死人の臭いの合間に。見えた、色。薊の花と無花果の青い実。飛んでいく燕の白い腹だったり。戸口の傍らの枇杷。力士像の足元の青蓮花も。心に留まった。白地にうす紫模様の衣、好きだと思った。

 そして、その夜。月の下の京の町、大路小路で展開される、盗人たちの運命を、どきどきして、追いかけた。染羽白羽の尖り矢、太刀の音、犬の声、火花、生暖かい血。老婆のさびしい最期。ちぎれた袖、染まった袴、群がる犬。阿漕のうつくしく傷ましい夢と、凌霄花のにおいが、心を留めたり。はらはらして、明けるのを待った、限りない夜。

 恐ろしい美しい女の、冥福を、祈る。兄弟の絆に、この世界の救いを感じた。この兄弟の、今後の更生を信じた、だから、幸運を願った。

 何某の随身は太郎です、その弟は次郎です、ハッピーエンドだ、ハッピーエンドで、よかった! 人間関係と事情を把握したあと、もっと悲惨な、後味が悪い結末を、想像していたよ…。芥川自身は、悪作として自嘲していたそう。わたしはこのメロドラマ風、好きみたい…。

地獄変

 あらすじは知っていた。それでも面白く読むことができたのは、文章の力だと思う。この時代の作家さんの作品を読むと、しみじみ思うのだ、日本語って、良いなあ綺麗だなあと。それと、表現力だ。語彙を駆使し、文字により文章により、一つの美しい絵を、描き出してみせるのだ、読者の脳裏に、まぶたの後に。この作品では、比喩ではなく、まさに、そのとおり。

 さまざまな視覚的な表現に囲まれ、視覚表現の豊かさを、享受し、堪能している時代だ。あらゆる事象を、映像として、手軽に気軽に見て、楽しんでいる時代だ。ただ、文字を使い文章として書くこと、文字を追いかけ文章を読むことの、楽しみも、忘れたくないなあ。

 導入部にそそられたし、途中でも、煽られて、焦らされた。心憎い演出・構成。

 わたしがこの物語で魅力を感じたものは、二つ。完成した屏風の迫力。そして、猿の良秀。

 猿の良秀の死が、一番、悲しかった。この子猿の、娘への思いが、この物語の中で、一番、純粋だった。

 良秀の、自分の娘への愛は、結婚させたくない、いつまでも自分のそばにおいておきたいという、不健全なものだったから、わたしは、感心も感動もしなかった…。

 夢の中で良秀を呼んだのは、地獄のものたちか。地獄を描こうと、思いを巡らし、思いを深めていくうちに、地獄に、近付いてしまったのか、自身で、呼んでしまったのか、良秀、予感していたんだろうか、漠然と、地獄を。

 蛇とみみずく。いい小道具。いい演出。

 十三の、くだり。わからない…。猿の良秀が、娘を助けようとしたのは、誰からですか、慌しく遠のいて行ったのは、誰? 大殿様ではないよね…。大殿様なら、良秀の娘を手込めにしようとしていたとしても、奉公人に見られたくらいで、逃げる必要はないし、慌てて逃げるような男でもないと思うのだが。もしこのとき逃げたのが大殿様なら、この物語、複雑になる、大殿がつまらない男になる。このくだり、この部分の、解釈がわからないから、意義がわからず、この部分、なくてもよかったのではないかと思ってしまった。読解力が欲しい…。

 きちんと読んだことがなかったから、娘を犠牲に選んだのは、父親の良秀自身だと誤解していた。良秀は、暗に女の死を願い出たけれど、娘は指名してないのか。堀川の大殿様の考えだったのか。

 雪解の御所、月のない夜。庭に据えた車、鎖にかけられた上臈姿の絵師の娘、燃えていく。見つめる絵師の、姿の、変化。

 このときの良秀の厳かさは、芸術というものの、厳かさか。大殿の喘ぎ、権力は芸術に勝てないということか。

 だけど、この小説を読んで、わたしが怖いと思ったのは、権力。芸術より、権力。芸術家の性より、権力者の性。地獄のような光景の実現を望んだのは良秀だけど、実現させたのは、大殿様だ。「出切る出来ぬの詮議は無益の沙汰」って、怖い言葉。本朝第一の絵師・良秀も、堀川の大殿様には、かなわなかったのだ。

 この地獄変の屏風、時代の変化に耐え抜いてほしい、こんな事情のもとに成立したけれど、時間を超えて存在してほしい、破損され、消えてしまいませんようにと、願った。フィクションなのですけどね。

「藪の中」

 女性の性暴力被害の問題として心にひっかかってしまい、小説として、素直に、読むことができない…。この物語、性暴力を含む事件でなくては、成立しないのか、面白くならないのか。

 単純な強盗殺人ではつまらないのはわかるけれど。親子兄弟の骨肉の争い、あるいは友人同士のいさかい。せめて夫婦でなくても、兄妹か姉弟、いや、これも悲しい…。

 悲しいけれど。「女性」と「性」の事件だから、面白いんだな…。

 ただ。みんな問題があったとか、それぞれの事情があるとか、主観はいろいろとか、「何が起きたか結局わかりませんでした」は、やめてほしいです、この種の、現代の事件では、現実の裁判では…。

 わたしは、多襄丸の白状が、事実だと思うことにした。そうすると、女性に対する暴力はいやだけど、多襄丸、悪人としてはなかなか好みかも。

「六の宮の姫君」

 わたしは、この、六の宮の姫君、好きだ。

 悲しみも喜びも知らない生涯。単調な遊びの繰り返し。なりゆきに任せる外はない。悲しみも喜びも少ない朝夕。ものうい安らかさ。はかない満足。泣くこと悲しむことに疲れた体と心。

 わたしは、高貴な身分の、美しい、こういう女性が、好みなのだ…。

 そして、こういう、人生も。高貴でも美しくもない人間のものであっても…。

 だから、芥川さん、侮蔑しないであげてください…。往生させてあげてほしかったです…。

 

講談社学術文庫「オスマン帝国の解体」

著・鈴木董

 イスラム世界に関して。気楽で手軽なメディアから、何気なく、正確な知識を目にして客観的な情報を耳にすることは、あんまりないかもしれない。わたしは、その魅力的な測面も知りたいし、肯定的な意見も、聞きたいと思う。

 この著者のかたが書かれた本を読んだことが、オスマン帝国を好きになったきっかけだった。好きだから、この本のこの題名、悲しいのだけど…。

 イスラム世界において、アラブ人ではなくトルコ人に惹かれる。その理由は、彼らのルーツの「遊牧民」「騎馬民」、「辺境」「新興国」という要素。そして「戦士」「戦に強い」という、イメージ。あと、ペルシア帝国とペルシア人が好きなので、初期にペルシア人が重用されたことなんかも。 

 広い視野から、世界を見渡しながら、イスラム世界について、イスラム世界におけるオスマン帝国について、語っている。中世西欧や近代西欧と比較して、ときには中国や日本とも比較して、語っているのが、面白いよ。

  オスマン帝国に限らず。具体的な詳細な細部を、見て、知るのは、楽しい。そして、上から俯瞰するように、全体から、より大きなものの一つとしての流れを、見て、知ることも、楽しいんだなあと、しみじみ思った。

 近代世界体系、近代国家、国民国家。当然のものだと感じている、今のこの世界は、当然のもの、絶対、自然、ではないのだ。不思議な気持ち。「~「民族」なる人工物は~高度の物神化をとげたかにみえる」という文章に、はっとした。近代になり人々は「民族」の真価に気付いたのだと思っていたのだけど。近代に入り、「民族」という価値が、上がったという解釈もできるのだ。

 説明が、論理的で具体的で、端的で適切で、とても、わかりやすいよ。「近代化」が、非西欧諸国に葛藤を生み出す、社会構造的背景が、よくわかった。日本が、短い期間で近代化に成功した理由も。ネイション・ステイト・モデルと当該社会の文化的相性だ。

 イスラム世界。アラブ帝国からイスラム帝国へ。移動の文化。「イスラムの家」の統一性と普遍性。シャリーアのみが世界法。

 前近代イスラム社会の「イスラム的寛容」というべきものの遺産。かつての魅力が、今、仇となっている。人類への、貴重なすてきな遺産のはず、正しく使うことができれば…。

 「デヴレッティ・アリ・オスマン」、うっとりする言葉…。「オスマン家の王朝・国家」という意味のトルコ語。ペルシア帝国も「エーラーン・シャフル」という呼びかたのほうが、美しく感じる。オスマンの場合も。原語の響きのほうが、魅惑的だ…。

 多様な自然地理的環境、多様な生態学的環境、多様な歴史的過去・文化的伝統。多種多様な、宗教・宗派、言語、民族。文章で表現されると、改めて、なんて複雑な帝国!

 「オスマン時代における「民族」観念は、生物学的なものではなく、著しく文化的なものであった」。

 宗教的アイデンティティの優位。宗教に基づく統合と共存のシステム。ミレット制度ではなく、ズィンミー制度。「イスラム優位下の不平等の下に、一定の秩序のなかで共存していた」って、このこと、重要だよね、でも、知られていないのか…。

 「国語」のない国、二つの文明語・文化語、三言語に通じている文人学者ってすてき。教育の多様性。

 「オスマンの衝撃」の主体、から「西洋の衝撃」の客体、へ、「東方問題」の舞台、へ。ああ、なんて適切な言葉、なんて端的な表現、正しいから、痛い…。

 バルカンで生きる人々の、現在に繋がる、精神的変容の過程。ギリシアセルビアの違い。わたしはギリシアに興味がなかったので、現代においてギリシアとトルコの仲が良くない理由が、いまいちわかっていなかったのだけど、わかりました。

 一時期、ハプスブルク家に関するものをよく読んでいた。近代に入ってからのハプスブルク帝国は、なんて大変なのだろうと思っていたけれど、オスマン帝国のほうが、もっともっと、大変じゃないか…。

「宗教を基軸としたパクス・オトマニカの基礎は、言語を基軸とする民族主義としてのナショナリズムにより、着実に掘り崩され始めた」。

  イスラム主義の試み。活力と生命力に満ち溢れた、若き日のオスマン帝国が、「カリフ」という称号に、関心を示さず、執着もしなかったことを、なんてかっこいいんだろうと思ったものだった。だけど、近代に現われた、スルタン・カリフ制論。惹かれるよ、尊い美しい光だ、最後の…。

 第二次ウィーン包囲、完全な失敗、西欧世界に対する陸上戦で初めての敗退、ショック…。

 外交政策。仮想敵国、親英仏派、親独派。初期の、草原を馬で駆け、剣や弓で敵を殺していた時代の帝国が、懐かしい…。

 オスマン帝国ハプスブルク帝国が同じ陣営で戦う、仲間・味方になるって、ドラマティックな展開だ、勝っていれば、ドラマティックな物語になったのに、勝っていればね…。

 第一次大戦の敗戦により、オスマン帝国、解体。戦勝国の列強、死体に群がるハゲタカのよう。この時代の西欧列強を見ていると、非西欧人の血が騒ぐのかな、彼らが憎くなる。どう見ても、欲望で動いているし。だから、ケマル・パシャことアタテュルク大統領に惹かれる、「国民闘争」に興奮する、アナトリアが分割されなくて本当によかったと思う。

 文民統制シビリアンコントロールは、現代に、絶対必要なシステムであり、絶対正しいルールだと思う。だけど。有能な軍司令官であり有能な政治指導者でもある、勇敢な軍人であり優秀な政治家でもある、そんな、歴史上の男性たちは、かっこいい…。オスマン帝国について言えば、初期の皇帝たちはそうだし、ケマル・パシャもそうだ。かっこいいなあ…。

 西欧諸国、このころと比べると、ずいぶん「いいひと」になった。素直に言えば、社会が進歩した、人類が前進したってことなのだろう。ただ、第二次大戦がトラウマになって、人格が変わってしまったのかも、なんて。

 パン・トルコ主義、そしてトルコ民族主義へ。アナトリアを中心とする国土としてのトルコに立脚するネイション・ステイトとしてのトルコ共和国成立。

 宗教から民族へ。伝統的な共存システムの溶解。オスマン帝国の終焉は、単に、オスマン朝が終わったというだけではなかったのだ。もっと大きな世界が、もっと長い歴史が終わったのだと、この本を読んで、実感した。

 現在、アナトリアに存在するトルコ共和国が、世俗主義の国家だということに、皮肉と不思議を感じる。

 現在の、シリアやパレスティナなどの中東地域の、不安定な社会。それは、イギリスとフランスによる分割から始まったといえると、知っている人は、どのくらい、いるのだろう。専門家・学者ではない、世界の普通の人々の多くは、知らないのでは。もっとも、知ったからといって、イギリスとフランスを責めたって、イギリスにもフランスにももはや、解決・収拾できない…。

 膨大で複雑なものを、簡潔に見せてくれた、この本。読んで、良かった。

「青年」 著・森鴎外

新潮文庫

 解説で、「ともに日本で書かれた最初の教養・発展小説」であるとして「三四郎」の名が出てくる。不遜ながら、まことに不遜な仕儀なのですが、比べますと、わたしは、小説としては「三四郎」のほうが好きだと思いました。だけど、三四郎より、純一の今後が、気になるのです。

 純一は、「雛のような目」「黒く澄んだ瞳」を持っているけれど、「老人のような理屈」も持っている。三四郎より、複雑だと感じ、だから三四郎より、気になった。

 小泉純一くんは、このあと、真の生活を始めたのだろうか。猛烈な恋愛を経験したのだろうか。途に上ったのだろうか。大人の男性に成長した純一くんを、見たかったなあ。

 純一の、意地悪で皮肉げで、笑ってしまうところ。作家・鴎村(鴎外?)に対して、身ぶるいし、何の興味をも持っていないところ。碁を打っている人のことを「単に時間を打ち殺す人としか思わない」ですって。新俳優への前途への気遣いにも。

 こういう物語を書くにあたり、鴎外はなぜ、主人公を学生にしなかったのだろう。純一はなぜ学生ではないのか。もっとも純一自身が、学校を望んでいないのだけど。学校に通っている瀬戸くんは、干からびているし。学生ではないほうが、自由で清潔で空虚だから、だろうか。学校という要素が加わると、違う物語になってしまうのだろうか。

 わたしは、目の奥に秘密をたたえた、美しい死人の顔色の坂井未亡人、好きです。だから、純一くん、正直に、いろいろな感情を彼女にぶつけてしまえばよかったのに、怒ればよかったのにと思ってしまうのだが、インテリの青年は、そんなことはできないのですね…。お雪さんにも、おちゃらにも、なんでも言いたいことを言えばいいのにと、思ってしまうのだけど、小泉純一は、そんなことは、しないのですね。そんな物語では、ないのですね…。

 純一の若さのためか、鴎外の個性か、女性に対する目が、厳しくて冷たいと感じた。そういう時代に書かれたものだし、昔の小説だから、仕方ないのだけど。まともに健全に、コミュニケーションを取ったら、女は、敵ではないとわかると、思っている…。もっとも、きちんと意思疎通を図らないからこそ、魅力的な謎のままでいられるのだろう、それはそれで。

 純一青年、大正という時代に生きているけれど、その背後に、故郷・家族の存在する古い世界が、あまり感じられない。地縁は出てくるけれど。「山口県」ではなく、「Y県」と書かれているのだ。近親者は亡くなっている。地縁・血縁の世界を詳しく表すと、違う物語になってしまうのだろうか。地縁・血縁が重くないから、純一青年は、東京で純粋に思索にふけることができるのかな。

 学生ではなく、厄介な家族はおらず、金の心配もない。純一青年って、「青春小説」の主人公にしては、珍しい?

 坂井未亡人びいきのわたしだけど、箱根、福住のくだりは、純一が、さすがに可哀想だと思った。ただ、純一はさすがに頭がいい、「自己を愛する心が傷つけられた不平」、きちんとわかっている。「寂しいことは寂しい」、正直な気持ちを吐露する、寂しいと認める、えらいです。

 純一が書こうとしているものが、国の亡くなった祖母が話して聞せた伝説であるということが、意外だった。でも、すてきだと思う。ぜひ、書いてほしい。

 最後。純一が朝、起きてからのくだりは、小気味が良い。思考が駆け出す。停滞していた空気が払われて、開けていく、前へ。ただ、お絹さん、切ない…。純一、罪作りな青年だ…。

 インテリではないわたしが興味を持ったのは、思想的解答ではなかったのでした…。

 この先を書けば、「童話」でなくなってしまうから、「楽しく書き進め」ることはできなくなるから、鴎外は、書かなかったのだろうかと、考えた。童話ではなくなってしまっても、かまわないから、わたしは、小泉純一くんのそれからを、読みたかったです。

 

文春文庫「トップモデル きれいな女の汚い商売」

 著・ マイケル・グロス  訳・吉澤康子

 本を詰めた段ボール箱の奥から出てきた、昔、買った本を、読み返してみた。1996年に文庫として出版されており、「はじめに」で取り上げられている時間が1993年である。

 第一部の副題は「古き良き時代」。ただ2021年の今、読むと、この本の内容すべて、総じて、「古き、良くない時代」かもしれないなあ。今のファッション・モデルを巡る世界は、このときとは違う、改善された健全化したと、思いたい。

 ただ。モデルの世界も多様化が進んでいる現在。古典的正統派美女と女性らしいセクシーな美女が好きなわたしにはやはり、「古き良き時代」かも。

 多様化は正しいけれど、わたしは、「美」の神さまに選ばれた、特別な遺伝子を持つ、女性らしいモデルが好き。中性的だったり男性的だったり童顔だったり個性的だったり「隣の家の女の子」なタイプの女性はあまり…。わたし自身の容姿は、まったくこれっぽちも全然「美」の神さまに選ばれていないのですが。

 王族貴族大富豪という特権階級に興味があるから、モデルにも興味があった。王族貴族大富豪とも関わるし。「美」という特権階級といえるし。

 職業として確立された初期のモデル、アニタ・コルビー。頭の良さと意志の強さに驚く。長い間結婚しなかった理由、「後悔するより、孤独なほうがましよ」。すてき…。

 モデル業界のゴッドマザー・エージェント、アイリーン・フォード。夫ジェリーの浮気に対して見せた感情・行動。アイリーンでなければ、ただただ痛々しいのだが。アイリーンだから、逆に、人間らしく女性らしく見える。

 ツイッギーの全盛期って短かったんだなあ。

 ウェルへルミナ・クーパー。美貌・能力・仕事・お金を持っている女性が、暴力を振るい浮気を繰り返す夫と別れない姿は、悲しい。

 「健康」「隣の家の女の子」路線は、グレース・ミラベラの「ヴォーグ」からか。

 エージェンシー「エリート」を作ったジョン・カサブランカって、スペイン人だったのか。美に敏感で、魅力的な男性だっだことに納得してしまったり。モデル戦争、知人、友人、近い関係で、争っている。みんな知り合いでは。仲が悪いから、一切関わりを持たないということは、できない世界なのか。

 60年代と70年代の、モデル・カメラマン・エージェントなどにまつわる、セックス・ドラッグ・金などを巡る、めちゃくちゃなぶっとんだエピソードの数々。面白いんだけど、面白がっていいものか、あれは犯罪だしそれは不幸だし、よく考えたら悲劇だし、でもみんな、とらわれていないのか、生き残っている人たちは、気にしてないのか、強いのか、だから、生き残ったか…。

 ジェラルド・マリーも、カサブランカも、未成年と…。確かに第一部、初期のモデル界は「古き良き時代」ですね…。

 クリスティ・ボルスターの、自分自身の半生について、一日24時間モデルとして生きていたころについての、語り。容姿は特別、だけど、普通の女性だと思った。ローレン・ハットンのように聡明でも、ジャニス・ディキンソンのようにエキセントリックでもなく、決定的な悲劇と後戻りできない破滅を招くほど、愚かでもなく、何より、不運ではなかった。普通の女の子が過酷なサバイバルを経て、平穏な家庭生活を送っているというまともな物語だから、印象に残った。

 フォトグラファー、スティーヴン・マイゼルについて、「手放しで過去を称賛しているファッション文化における、独創性の欠如の鏡だ」。そうかあ、クリスティ・ナオミ・リンダの全盛期には、いわゆるスーパーモデルに世界中が熱狂していたときには、ファッション写真が創造的で芸術的だった時代は、もう、終わっていたのか、芸術的ではなくなっていたからこそ、大多数の人々の心をつかんだのか。

 昔、インターネットでモデルとファッション関係のサイトを巡るのを日課にしていた一時期、ステファニー・シーモアの若いころ(失礼なのだけど…)の写真を見て、「好みだ」と思ったことがあったのだけど。カサブランカの二番目の妻だったのか。

 取り上げられる時間が、今に、近付いてくると、魔法が解けていく。おとぎ話・シンデレラストーリーではなくなってくる。そう感じる理由は、女性や社会の変化だけではなく、過去の話と違い、事実・現実・真実が、見えやすくなってくるからだな。

 最後の章「1日2万5000ドル」。今に繋がる、現実の話だ。ミステリアスなベールで、もはや、覆われていない。光ははっきり見える、影があることがわかる。エージェンシー・エージェントの、攻防・入れ替わり・移り変わり。モデルは、人々は、社会は、時代は、変化していく。

 よく働きよく遊ぶ人々。強い個性、大きな欲望、機敏な行動力を持った男女。成功と転落、悲劇と喜劇、事件、問題。密度の濃い人生。これらを眺めてきて、ふと、比べてしまった、自分というもの、自分の人生が、悲しくなりました…。

 

 

 

 

岩波新書「琵琶法師ー<異界>を語る人びと」

著・兵藤裕巳

 平家が好き、琵琶法師が平家物語を語っていたのだよねと、それだけで何気なく購入してみたら、予想外に想像以上に、面白かった。琵琶法師について、何も知らなかったことを、知った。題名の「<異界>を語る人びと」という部分は、意識していなかったのだけど、そこが、面白かった。

 その職業の、その人々の、神秘的な不可思議な側面に、引き込まれていった。ただ、物語とは、モノ語りとは、そもそも、不可思議な、もうひとつの、向こう側の領域と、繋がっていたのだった。目が見えないことと、職能との関係、目が見えない芸能民の、非凡な立場・能力について、初めて考えた。

 その人々の、被差別民であるという側面に、気付かされた。考えてみたらそうだったのだ、芸能民、そして目が見えないのだから…。盲目という五躰不具。躰の刻印。文学などの文化の、美しい世界を見るつもりだったのだけど、人間社会の薄暗い領域が、見えた。

 院政についての「天皇を凌駕する治天の君の聖性は、穢れをも包摂する磁場のうえに成立したのである」という文章が、印象に残った。平家物語について、霊威はげしい御霊の語りとして発生したという、捉えかたも。琵琶法師という観点から見ると、知っていると思っていた歴史の一幕が、新鮮に映る。

 「平家」芸能と権力との関わり。「平家物語」が、現実の権力者が関心を示すような問題だったことに、ちょっとびっくり。けど確かに、文化って政治でもあったのだから。文書テクストの管理権が、重要なのか。「平家一門の鎮魂の物語は、源氏将軍家の草創・起源を語る神話」「足利政権にとって、当代まで続く秩序・体制の起源神話」って、へえなるほど、さすが義満、慧眼、と、楽しくなった、足利将軍家好きのわたし。

 平家物語も琵琶法師も、中世というイメージが強かったのだけど、江戸時代にもちゃんと存在していたんだね。徳川政権との結びつき、将軍の扶持検校という身分があったのか、「平曲」と呼ばれるようになり、武家の式楽として存続、って、上流階級の教養の一つだったのか。当道座の脱賤民化の動きが興味深いが、なんだか悲しくもある、賤民同士の差別…。

 近世に入り、琵琶が三味線に代わったのか。 三味線の前は琵琶だったのか。

 西日本には盲人が琵琶を弾く習俗が近代にいたるまで残存したという。近代に残った琵琶法師。この本を読むまで、そんなこと、知らなかったのに。この本を読むまで、そんなこと、考えたこともなかったのだけど。琵琶法師が消えゆくことが、感慨深い…。

 「おわりに」の、最後のくだり、「~この世界に亀裂を入れ、人としてあることの根源的な哀感に私たちを向きあわせる」に、はっとした。人を安心せさてくれる声ではない、人々に笑顔と活力を与えてくれる、面白おかしい娯楽ではなかった。だけど、人間には、社会には、そういうものが必要だと思った。

中公新書「古代メソポタミア全史」

著・小林登志子

 これは、オスマン帝国から始まった、わたしの興味の、一つの方向。ただし、逆の方向。時間を巻き戻し、時代をさかのぼり、ここまで、辿り着いたよ、帰ってきたよ。もともと古代にもオリエントにも、とくに魅力を感じていなかったのだけど。

 「メソポタミア」「バビロン」「アッシリア」「シュメル」などという言葉は知っていた。学校の歴史の授業で習ったことを覚えていたみたい。それと、本を読んでると、ちらちら出てくる言葉だったみたい。

 当然のことなのだが、日本という国の始まりとは、まったく違う…。同じ人間、だけど、生きる場所が違うからだ。生活と労働を取り巻く環境が違うからだ。古代においては、地形と自然が、人間を鍛え、社会を規定し、文化を育てていったのだなあ。「文明のはじまりから、内向きでは生き残れず、外部との関係が不可欠であった」という文章が、印象的に残った。「古代」イコール「素朴な人々、のどかな社会」という連想は、間違っているんだね。

 多くの王、多くの王朝、多くの国。それだけ、権力が入れ替わったのだ。それだけ、争いがあったのだ。紀元前というはるか大昔の世界の、重層的な政治支配構造に驚き、国際情勢の複雑さに驚き、複雑な外交政策が展開されることに、驚く。人間って、大昔から、頭がいいんだなあ…。

 アケト・アテン遺跡について。「現代の思想的に過激な場所は、今から約3400年昔もやはり思想的に過激な場所であった」という文章。へえ、そうだったのか、面白いなと思ったあと、面白がってはいけないなと思った…。

 アッシリアバビロニア。北が軍事的に強いが南が文化先進地域って、中国大陸でもそうだった、なぜだろう、そうなっちゃうものなのですか。バビロニアアッシリアという時代になると、読みやすいな。たくさんの小さな都市の場所を把握するのが大変だった…。

 やりとりされる黄金の量にびっくりだ。日本の古代って縄文時代の人々って、素朴だなあとしみじみした。ただ、きらきら輝く黄金はすてきだけど、緑と水と土のなかの石も、すてきだよ。

 新アッシリア帝国、好みかも。やはりわたしは、強力な王が率いる中央集権国家が好きなのだ。その最期も、好みだ…。「軍事力によって膨張するだけ膨張した新アッシリア帝国には、縮小して、アッシリア本土だけでも永らえるような選択はもはやありえなかった」…。

 それにしても。古代の文章が、良い。旅券や手紙の文章。内容は実用的なのに。風情があり、優雅で、詩のよう。日本語の訳が、上手なのかな、優雅なのかな。

 写真、図版と呼ぶのだっけ、たくさん挿入されている。もともと中世美術、中世文化にうっとりする性質なのだが。彫像・飾り・装飾・碑などを見て、古代の美術は美しいと、初めて感じた。シンプルな線で構成されているから、逆に、かえって、モダンで現代的に映る。人間は大昔から、美しいものを、求め、作り、大切にしてきたんだなあ。人間は大昔から、手先が器用で、美的感覚に優れていたんだなあ…。

 ペルシア帝国が登場すると嬉しい。最近、ペルシア帝国関係のものをよく読むので、「アケメネス王朝」より「ハカーマニシュ王朝」、「ペルシア帝国」より「エーラーン・シャフル」という言いかたのほうに、うっとりするわたしなのですが。

 この本のページを開く前、この地域の歴史・文化の魅力を知ったら、この地の現在の状況が、ますます悲しくなるだろうと思っていた。「はじめに」で、ほぼ現在のイラク共和国にあたるメソポタミアは、戦争が多かったと述べられているのだが。戦争をするだけではなかったとも書かれているのだが。読んでみて、この同一文化圏で、戦争が繰り返されてきた歴史を知り。そういう土地、そういう人々だったのかと思い、悲しいだけではない、運命というか宿命というか、諦めを感じたり、逆に楽観的にもなったり、複雑な気持ちに。

 だけど、「あとがき」を読んで。人々は、非常時を切り抜けてきたこと。破壊や滅亡や悲劇を経て、今もなお、その地で、生活し、働いている、多くの人々がいること。人は、大きな変化に対応し適応し、今も、そこに存在していることを、見るべきなのだなと思った。無ではない、放棄されていない、消え去っていない。これからも、多くの人が、この地で、怒り、喜び、悲しみ、死に、生まれ、歴史を更新し、現在を未来へ繋ぎ続けていくのだろうと思った。