(新潮文庫)短編集
日本の文豪な気分はまだ続く。フローベールの「ボヴァリー夫人」を読み進めていたのだが。夏目漱石を読んだあとというタイミングが悪かったみたい。内省的、自己否定、自己処罰、という要素が感じられないヒロインに感情移入できず…。森鴎外はわたしにとって森茉莉の父。一時期、森茉莉のエッセイをよく読んでいた。
「杯」
夏の朝。清らかな水。赤いリボン、赤い端緒。輝く銀の杯。そこへ、黒いリボン。黒ずんだ小さい杯。沈んだ、鋭い声。
美しい朗らかな平和を壊した強い意志に、はっとした。
「普請中」
店で男と女が食事をする。見えるのは聞こえるのは、表面、周辺、浅瀬。だけど、内側、核心、深みを、秘めたものを、感じる。二人の関係、それぞれの個性、それぞれの人生が、想像できる。だから、心に残る。
「カズイスチカ」
父親と息子の関係に、和んだ。
「妄想」
この小説の題名が、面白い。偽悪的?自虐?皮肉?それとも諦観?あるいは挑戦的?
老人が一人で、思う。これまでの自分の人生を。それは、思想の彷徨、感受性の変遷。おそらく鴎外自身の。
妄想という言葉で著したことに、鴎外が表れていると思った。
「百物語」
題名から想像した内容ではなかったところが、面白かった。人間に非ざるものは出てこなかった。恐怖による叫びはなかった。
百物語という催しではなく、そこで語られる怪談ではなく。その催しに集まる人々と、その催主が、描かれる。現実の風景である。日常の一場面である。百物語という催しが、少々非日常であるだけ。だけど、その場とその人々が、不穏な雰囲気を醸し出していく…。とくに催主が…。「僕」の観察と主観によって。筆力によって。いつのまにか、非日常へ誘い込まれていたようだ。「怪物屋敷」という形容に、違和感はなかったから。
最後のくだり。「傍観者」が、種明かしのよう。ふっと現実に戻らされる。
「最後の一句」
読み始めて、題名の「最後の一句」とは、辞世の句、死にゆくものの最期の言葉のことだろうと漠然と思い、読み進めていったら、違っていた。
親孝行の、孝行娘の、美談ではなかったところが、良い。長女いち。涙を流す熱い申立ではないところが、冷かな目と徐かな詞が、良い。
「高瀬舟」
朧夜の川面。浮かぶのは、人生、罪。漂うのは、疑、そして不条理。
庄兵衛を、喜助も、善良で無垢な庶民だと考えれば、救いがあるかな。抵抗するという発想がない、被支配者と解釈すれば、悲しいな。
この疑問に対する答えは、現代のオオトリテエも、模索している。日本ではまだ。