たの葉の物思い 

本を読んで、たの葉が思ったことです、ときどき、それ以外

講談社学術文庫「<イスラーム世界>とは何か  「新しい世界史」を描く」

著・羽田正

 ぱらぱらと流し読みし「へえ、変わってる」と、興味が湧いて、購入。

 イスラームに関する一般人向けに書かれた本を、これまで数冊読んできた、わたし。読み終えた感想の一つが、「こういう内容は、読者に一般人も想定される本としては、珍しいんじゃないかな。」だった。

 なにを、変わってて珍しいと思ったって、その視点。

 イスラームという、宗教の説明でも、諸国諸王朝の歴史でも、ないのです。

 イスラーム教徒・ムスリムが、自分たちの世界を、どのように考えていたか。ヨーロッパの人々が、ムスリムが暮らす地域を、そして自分たちの世界を、どのようにとらえていたか。

 この本の目的は、最初に述べられている。「イスラーム世界」という単語の有する歴史的背景を明らかにする、「イスラーム世界」史が生まれた歴史的背景と過程を明らかにする、従来の「イスラーム世界」の歴史の叙述方法を再検討する。

 現実について、と言うより、現実をどのように解釈してきたか。

 だからこの本においては、「イスラーム」だけでなく、それを巡る研究者・知識人たちの存在も、重要なんだ。

 「イスラーム」という舞台の、舞台の裏を、あるいは楽屋を、見せてもらったという感じ、かも。

 イスラームに限らないことだけど。イスラームという現実。わたしはそれに、そのまま、ありのまま、触れているのではない。それを伝え、語り、書く人々がいる。わたしは、そういう媒介者・仲介者を通し、それに、触れる。媒介者・仲介者の、頭のなかと心のなかというフィルターにろ過された結果を、受け止めている。どういうフィルターか、知っておくべきですね。媒介・仲介するものは、個人であり時代でもあり政府でもあり、意志であり感情であり。

 今の時代は「読んで、知った」ことより「見て、知った」ことのほうが多いのだろう。直接見る、ことはできなくても、画面越しで、リアルタイムで、見ることができる。だけど、やはりそれは、その現実、そのまま、ありのままではないのだと思う。どんな映像も、限定的な情報に過ぎないんだと思う。

 わたしは題名の「イスラーム」という言葉に惹かれ、この本を手に取った。「「新しい世界史」を描く」という部分は、気に留めていなかった。だけど、イスラームのお話だけでは、なかった。

 題名から想像した以上に、広く、大きく、深い、お話でした。

 

 序章 「イスラーム世界」という語のあいまいさ。

 「イスラーム世界」。「なんとなくわかった気になって、読み流してしまう言葉」、はい、そのとおりでした、だけど。

 この本を読み終え、この語の、適切な使いかたを、知った。知って良かったと、心から思った。

 ともかく、まず、序章です。

 「イスラーム世界」という語の、定義の整理。

 (1)理念的な意味でのムスリム共同体

 (2)イスラム協力機構

 (3)住民の多数がムスリムである地域

 (4)支配者がムスリムイスラーム法による統治が行われている地域(歴史的イスラーム世界)

 (1)は超時代的、理念的、(2)と(3)は現代に関わり、現実に存在している空間、(4)は歴史的、超時代的。地理的にはっきりと境域を決定できるのは(2)だけで、…。

 ややこしい!

 理念と現実が一緒になってしまっているからだそうです。

 専門家のかたたちにとっても、複雑でわかりにくいそうです。

 本や新聞やテレビ番組で見かけそうだし、気軽に何気なく使ってしまいそうな、この言葉からして、このややこしさ。一般の人々がイスラームに対して適切な知識を持ち正しく理解することへのハードルは、高いのか。

 さらっと書かれている、「イスラーム世界」通史の要約。「~、オスマン・サファヴィー・ムガルという三つの強大な王朝が並び立つ十六ー十七世紀は、前近代「イスラーム世界」の絶頂期であることが強調される。」という文章に、興奮した、オスマン・サファヴィー好きのわたし。

 第Ⅰ部 前近代ムスリムの世界像と世界認識。

 第一章 前近代ムスリムの地理的知見と世界像。前近代のムスリムは、現実に人々が生きているこの世界を、地理的に、どのように認識・把握していたのか。ムスリムの手による、いわゆる地理書をから、検討していく。

 地理書から、地理以外のことも、読み解くことができるのね。

 「ムスリムは決して今日のヨーロッパ地域の方だけを向いていたわけでも、とりたててそこから顔を背けていたわけでもない。」

 「~ヨーロッパ対イスラームという視点から前近代のムスリムの世界像を論じれば、結果としてその全体像を見誤ることになりかねない。」

 「ラテン・キリスト教世界」という、なじみのない言葉が出てきた。脚注を読み、理解した。「地理的な意味での「ヨーロッパ」と理念としての「ヨーロッパ」は厳密に区別されなければならない。」「~、十八世紀以前の歴史を扱う際には、「ヨーロッパ」という語の使用には慎重であるべきだと考える。」

 第二章 前近代ムスリムによる世界史叙述。世界と人類の歴史がどのように描かれているのか。歴史書文献から、「世界史書」から、検討していく。ただあくまで、代表的なムスリム知識人の歴史観

 だけど、まず。脚注の「歴史という言葉に「存在としての歴史」と「記録・叙述としての歴史」という二つの意味があること、~」という文章に、はっとした。歴史が好き、歴史に萌える、わたしである。この二つの歴史を混同してはならないと、肝に銘じた。

 「陸地や海洋について、人々がある程度まで同じ地理情報を共有するようになった地理的認識の場合とは異なり、歴史意識や歴史観の場合、問題はそれほど単純ではない。」

 「世界史をどのように書くかという点で、世界の人々の間に合意はない。」「数学や理科の基礎的な定理や法則は世界共通である。しかし、世界共通の世界史はないのである。」

 アラビア語世界史書とペルシア語世界史書の、違いが、興味深い。原則としてペルシア語文化圏にしか関心を示さなかったというペルシア語世界史書を、ほほ笑ましいと思った、ペルシア好きのわたし。

 「~「イスラーム世界」の四つの語義のうちで、(4)の「ムスリム支配者の統治する空間」という意味だけが、ムスリムの手になる地理書や歴史書の一部で用いられていたことが明らかとなった。」

 「では、単純で分かりやすいこの語義が、なぜ現代の複雑な意味へと変化したのだろうか。」

 第Ⅱ部 近代ヨーロッパと「イスラーム世界」。今日ヨーロッパと呼ばれる地域、とりわけその西北方地域で、イスラームはどのように認識されていたのか。

 少なくとも十八世紀後半頃までは、ヨーロッパ諸語で記された文献においては、東方地域を漠然と「アジア」または「オリエント(東方)」と呼ぶのが通例だった。

 エルンスト・ルナンの、イスラームに対する否定的な見方。これほど理路整然とした偏見、なんだか逆にかえって、愉快よ。

 十八世紀の後半から十九世紀の後半までの百年の間に、ヨーロッパ知識人の世界像やそれに基づく思想、さらにそれらの影響を受けたムスリム知識人は大きく変化した。

 十九世紀に入ると、「ヨーロッパ」と「イスラーム」という二項対立の図式が浮かび上がってくる。

 「~、人々の間で、進歩し、世俗化し、文明化したプラスの「ヨーロッパ」という考え方が強まるにつれて、そこから除外されたその周辺のムスリム居住地域が、マイナスの「イスラーム」世界として、あぶり出されるように姿を現した。」

 「「ヨーロッパ」と「イスラーム世界」は、その意味で正に双子の概念だった。」

 アフガーニーが目指すプラスの「イスラーム世界」。やはり十九世紀ヨーロッパにおける社会変動や思潮の影響によって創造されたと考えてよいのではないか。

 もしかして。現代のあれこれの、世界のあんなことやこんなことの、根源は。さかのぼってさかのぼって考えると。

 イスラームに、悪役としての生命を与え、悪役として成長させたのは。

 十九世紀ヨーロッパ…?

 皮肉…。

 第三章 東洋学と「イスラーム世界」史研究。

 東洋学とは。文字資料の少ない「未開」地域を理解するための学問とされる人類学とならんで、非ヨーロッパ地域を理解するための学問とされた。って、人類学と同じ項目だったとは。

 対して、歴史学は。ヨーロッパの起源を探り、その歩みを明らかにするための学問。

「~、停滞したままで進歩しないヨーロッパ以外の地域は基本的に歴史学者の関心の外に置かれた。そこは、東洋学者や人類学者、それに民族学者らの活躍する領域だったのである。」

 東洋学って、不思議な立ち位置。それにしても、当時の西欧人のこの考えかた、この区別、すごいです…。

 フランス、イギリス、ドイツ、ロシアなどでは、十九世紀から遅くとも二十世紀の初めまでに、「ヨーロッパ」とこれに対になる「イスラーム世界」という空間概念が創造され、その枠組みに従って、歴史を叙述しようとする試みが行われるようになった。

 「イスラーム史」を叙述することがいかに難しいか。「ヨーロッパの歴史学者はオリエントの言葉が読めないし、東洋学者は膨大な現地語文献の解読に忙しくその成果を総合するところまではなかなか到達しないから」って、面白い!

 バーナード・ルイス。「ルイスがイスラームや「イスラーム世界」に対して抱く思い入れは、あえてたとえれば、優位にある者が劣位にある者をかばい、手をさしのべるような感覚を読む者に抱かせる。」

 「~、ムスリムの友人を多く持つルイス自身は、あくまでも自らの研究対象である「イスラーム世界」に純粋な愛情を注いでいるつもりに違いない。否定的にしか評価できないものを研究するのは困難である。」「嫌いなものを研究するために、苦労してアラビア語トルコ語を学ぶことは、強制されない限りありえない。」

 「ここに現代にまで至る西洋の研究者による「イスラーム世界」史叙述に特徴的な「意識のねじれ」の構造があらわれている。」、現代にまで、至っているのね…。

 十九世紀のヨーロッパで創造され、明らかにバイアスのかかった「イスラーム世界」という概念。そして、アラビア語の古典的な歴史書や地理書の一部に見られる「イスラーム世界」という空間認識。前者は地理的な領域を持たない。後者は現実的に地理的な領域を持っている。本来結びつくはずのないものを、無理に結びつけて形成された「イスラーム世界」史、これは、現代の私たちにとって、意味はあるのか。

 現在の中東諸国の歴史教育。意外。

 イランの場合は。歴史の舞台は、常にイラン高原、アラブ人やトルコ人その他多くのムスリムの歴史をも含む「イスラーム世界」史という考え方は、志向されていない、という事情は、意外ではなかった。

 だけど。トルコのトルコ史テーゼ。この歴史観におけるイスラームの扱いは無いに等しい、むろん「イスラーム世界」史という枠組みもありえない、って、驚いた。

 第Ⅲ部 日本における「イスラーム世界」概念の受容と展開。

 まず。「中東」とは二十世紀になってから成立したきわめて現代的な地域認識の述語。

 日露戦争の勝利、満州への政治・経済的進出、この地に移住してきていたタタール系のムスリムとの接触。へえ、タタール系のムスリムが、日本の「回教圏」研究の始まりなのね。

 それにしても、時代が…。「~、地域研究と現実の政治の関係はきわめて微妙で、取り扱いが難しい問題なのである。」

 「~、日本では「回教圏」すなわち「イスラーム世界」という概念は、1930年代になってはじめて「発見」され、急速に普及した。」

 「国際政治の環境が、当時の日本人にパン・イスラーム主義に淵源を持つ回教圏概念を「発見」させ、これを滋養させたのである。」

 1942年、回教圏研究所による「概観回教圏」の出版。「ヨーロッパにおいてまだ具体的な「イスラーム世界」史の描き方が確立していなかったこの時期に、日本の研究者が独自の観点から記したこの回教圏史は、回教圏を実在の時空ととらえそれ自体の歴史を描こうとする際には、ひとつの有力なモデルとなりうるだろう。」

 戦後のイスラームや「イスラーム世界」研究の重点はいわゆる中東地域に置かれている。ああ、やはり時代が。「研究者は、政治や研究対象との距離をどのようにとるべきなのだろうか。」

 戦前・戦中の研究者の言う「回教圏」とは、理念としての全ムスリムの共同体であると同時に、現実にムスリムが多く居住する地域。理念と現実を一体のものと考えるこの独特の概念は、現代の研究者でまで受け継がれている。

 「一般に、日本人の「イスラーム世界」史研究者は、研究対象であるムスリム諸社会に深い共感を抱いている。」、だから、日本人が書いたイスラームに関する本を読むたびに、読むごとに、イスラームに、惹かれていくのだろうか。わたしが敢えてそういう本を選んでいると思っていたのだけど。もしかして、日本人が書いたイスラームを完全に否定する本は、見つけるほうが、難しいのだろうか。 

 脚注で。現在、日本の多くの大学で「イスラーム世界」史が東洋史の範疇に入っているのは、アジア主義大東亜共栄圏構想の遺産とも言える、のですって。学者でも教育者でもないのに、なぜかなんだかなんとなく、西洋史より東洋史に入っていてほしい、東洋史に入ってくれてよかった、と思った。意外なものの意外な功績。

 この本、脚注もしっかり読まないともったいないし、誤解してしまうかも。

 終論 「イスラーム世界」史との訣別。

 イスラームは他の宗教とは異なった特別な信仰体系だという主張。

 「「イスラーム政教分離はありえない、イスラームだけは特別だ」という言説は、~「イスラーム世界」という概念を依然として必要とする十九世紀ヨーロッパの知識人的思考を持った人か、イスラーム主義者、ないしはイスラームに重要な価値を見出す人々のどちらかから発せられているとみてよいのである。」

 「イスラーム世界」史という考え方は、「近代」に特有の歴史認識。「十九世紀的世界認識に基づく地域設定は、現代世界の成り立ちを理解するための世界史にはもはや不要である。」

 今後私たちはどのような場合に「イスラーム世界」という語を使えばよいのか。

 序論で述べた、(1)理念的な意味でのムスリム共同体、の意味で。

 「私の提案は、あくまで理念としての意味でのみ、「イスラーム世界」という語を使用すべきだということである。」

 補章 「イスラーム世界」とグローバルヒストリー ー十五年後の世界で。

 本書の原著が刊行されたのは2005年。この文章を記しているのは、2020年の暮れだと述べられる。

 「~「イスラーム世界」という語を理念としての意味でのみ限定的に使用すべきだとする原著の主張を変更、修正する必要はないと考えている。」

 「現実の世界の状況を説明する際には、誤解を避けるために、「イスラーム世界」という語ではなく、「すべてのムスリム」という表現が用いられる方がよいとも思う。」

 世界史を語る言語。研究者の立場性。

 「空間や言語などある特定の条件の下で一つの概念が生まれ、それが他の地域や言語に伝わり、そこでまた独自の意味を獲得して行く。「イスラーム世界」という語は、その一例である。」

 「この現象をグローバルに、歴史的な観点から把握し、地域や言語ごとの特殊性とそれらを超えた共通性や知の運動を理解することは、新しい世界史の構想にとって非常に重要である。」

 「十五年前に出版され、日本語における「イスラーム世界」概念の批判という使命を果たした原著は、本書によって、グローバルヒストリーという手法を用いた新しい世界史構想のための一つの材料として新しい生命を与えられたと言えるだろう。」

 

 「イスラーム世界」という、単純な言葉が、複雑でわかりにくい言葉になってしまった原因は、近代ヨーロッパ。

 わたしたちが、何気なくなんとなくイメージしているであろう「イスラーム世界」は、近代ヨーロッパが生み出した姿。 

 そしてそれが、現代の世界に及ぼした影響を踏まえて。歴史とは何か。歴史はどのように書かれるべきか。新しい世界史が必要だ。

 -が、わたしが、読み取ったこと、です。

 この本から「<イスラーム世界>とは何か」を教えてもらった。そしてさらに、イスラーム世界史やヨーロッパ史を無批判に世界史叙述の単位とするべきではないこと。世界史はどのように叙述されるべきか、ということまで。

 「世界史」という舞台の、舞台裏を、楽屋を、ほんの少し見せていただいたという感じ、でもある。舞台裏の活気に、希望を感じた。

 歴史学者に何ができるのか。「~、国や地域同士の対立を生む歴史解釈ではなく、「地球の住民」意識を人々に植え付けるような世界史の解釈と理解を生み出すことも、重要な貢献となるはずだ。」

 「おわりに」「補章」「学術文庫版のあとがき」を読み、この本を、「へえ、変わってるなあ」なんて、軽い気持ちでなんとなく手に取った自分に、恥じ入った。著者のかたの思いに、感動した。

 現実の社会と歴史研究はつながっている。

 歴史学歴史学者は、この世界に絶対必要だと思った。

 わたしは、イスラームの歴史が好き、日本の歴史が好き、特定の地域の歴史を知るのは、楽しくて面白い、これからもそういう本を読む、そして、新しい世界史も、読みたい。

 わたしが、見つけやすく、買いやすく、読みやすい、文庫本として発行してくれて、ありがとうございました!

   (2021年2月9日 第1刷発行)

「春昼・春昼後刻」  著・泉鏡花

岩波文庫

 美しいから、とても美しいから、心を奪われた。恋愛のそういう始まりかたが、好き。

 そして、「一目惚れ」「運命」、そういう恋愛が、好き。

 知り合って、人格的交流を深めていくうちに、お互いに愛情が生まれる。そういう、手順を踏んだ、周囲の人間が納得し理解する、健全なコミュニケーションによる恋愛物語も、大好きですよ。

 だけど、手順など踏まない、理屈はない、唐突で、不健全かも、病的、そんな激情に、触れたくなるときがあるのです。小説でね!

 その人の、素性とか人間性とかこれまでの人生とか。もちろん、現実では大事。現実に関係を維持していくためには、大事。一緒に未来へ向かうためには、大事。だけど。現実的で具体的なことは、追求しない、立ち入らない、こういう恋愛物語、好きです。未来を、目指さない、こういう恋人たち、好きです、フィクションなら!

 それにしても。ラブストーリーのはずなのに。単純に、ラブストーリーです、と言えない。優美に不穏さが漂う。恋愛模様を妖しい影が飾る。お化けは出てこないのに。泉鏡花の作品だもの。

 これから、春のうららかな日に、ふと、不穏を感じそう。

 

 ここのところ、面白く難しい本を読んで、頭が少々疲れていたので、ただ、好きなものに、会いたくなったのです。美しい女性に会いたくなったのです。美しい世界を、さまよいたくなったので、この本。買ったけれどまだ読んでいなかった。

 泉鏡花の文章、わたしには難しい、読みにくい、だけど、心地良い。

 考え込むより、ただ、その文章のリズムに身をゆだねることを覚えた。

 適切に正確に、読解していないかもしれません。だけどわたしは、その美しい表現に、酔うことはできるみたい。その世界に、魅力を感じること、そして浸ることは、できるみたい。

 

「春昼」

 ほかほかと暖かい、春の日の、散歩を、楽しむ。主人公とともに。静かでのどかな村。菜種の花の、黄色い畠。婦人が機を織る音。曲り角の青大将と、花の中の山かがしに、予感、予兆。

 石段を上がり、観音堂へお参り。奥床しい、尊く、懐かしい景色に感じ入り、主人公である「散策子」の、仏について、偶像についての考えかたに、耳を傾けた。散策子、単なる暇人ではないぞ、面白い、せめて夢にでも、幻にでも。すると、柱の懐紙の切れ端の、歌。夢になりともお姿を。詠んだ女性の名は、みを。そこから、出家が、和尚が、語る。ある男性について。お堂にも、春の日中にも、そぐわないような。なにせ、「殺した」「こがれ死」「恋煩い」…。

 お堂の下の仮庵室に泊まった、男性。客人。彼がこの地で出会った、財産家の細君。令夫人みを子。

 海の硝子に移った、薄い虹のような姿。涼しくみひらいた瞳は、雪舟の筆を、紫式部の硯に染めて、濃淡のぼかしをしたような。雪のような襟足。落ちぶれた華族のお姫様か、箔のついた芸娼妓か。底知れずの池に棲む、ぬしのように、素性が分らない、美女。

 浜で、出会った。橋の上で目が合った。軒下を見た。客人は、魅せられ、迷う。

 わたしも、その美女に、魅せられた、惹かれた。見るだけで、おかしくなっていく気持ち、よくわかる。呆れない、笑わない、その展開に、わたしはついていけます!

 石段を下り、裏山へ、山伝いの路へ。樹の下を、草を分けて、囃子の音に、誘われ、導かれた、祭り。宵宮? 本祭の夜? 谷の路。黒い谷底。薄汚れた幕が開く。窪んだ浅い横穴の、舞台。女たち。霜のようなはだし。みを夫人?

 妄想? 狂気?

 夢? 幻?

 これは、逢瀬? 

 不思議な、邂逅。ただそこは「蛇の矢倉」と呼ばれる、不気味な名前の場所…。

 お堂に戻ってはきたけれど。数日後、また蛇の矢倉に向かったらしい。

 客人は海に入って、亡くなったそうだ。

「春昼後刻」

 覚めなければ、夢ではない。いっそすべて夢にしてしまえばいい。

 空想から覚めれば、停車場の落成式の、トトンと鳴る笛太鼓の音。

 散策子は、会った。なまめかしい草の上、几帳に宿る月の影、丹花の唇、芙蓉の眦の、みを夫人と。

 わたしは、みを夫人の、姿に、所作に、言葉に、ただただ、うっとり。

 ただ、彼女を鬼に例えたり、腰をすべらせたり、散策子も、可愛いです。散策子は客人に似ていた。

 うららかな、申し分のない、春の日中というものの、意外な解釈。じりじりして、ぼッとした、夫人の心持。厭な心持。

 狂おしさを見せる、みを夫人にも、うっとり…。

 手帳のページ。鉛筆で描かれた。逢瀬の、証拠。余白に書かれた歌、水の底をも。

 水の底を捜したら。君が健在であろうか。ならば水の底へ潜ろう。

 亡くなった客人と、夫人との、不可思議な感応、夢の契り。

 狂気? 超常現象? 奇跡?

 相思相愛だったのだ。夢を通じて。

 門付芸人と連獅子は、予感、予兆、誘惑、案内。

 客人は、空想をして実現せしめんがために、身を以って、直ちに幽冥に趣いた。夫人は迷っている。地獄でも極楽でもそこに逢いたい人がいるんなら。ただ、死んでそれっきりになるくらいなら。生きていて、思い悩んで、忘れないで、いつまでもいつまでも。

 ただ、未来の有無を占い、霊魂の行方が分かったらしい。

 みを夫人も海で亡くなった。美にして艶な遺体。客人が打ちあがったのと同じ岩。

 自殺、後追い自殺、実は、不思議な心中、愛の成就。

 恋人たちは二人とも亡くなった。だけど、悲恋ではないでしょう。悲しくないわ。だって、二人の選択だから。それに、亡くなったのではなく。別の世界に行ったのよ。

 この世のものではない、別の世界。そこに行ったの。そして仲良く暮らしている。そう、二人とも。海の底で。夢の中で。

  夢でも幻でも、愛でも、物語でも、なんでも。

 覚めなければ、そのままでいられる。

 わたしもこの世界から覚めたくない。

 だけど。

 愛とは、一緒に生きて、一緒に未来へ向かうことだと思う。

 もがいて、あがいて、一緒に、現実に立ち向かうことだと思う。

 死を破滅を、愛と呼びたくない。それが美しくても。

 美しい死、美しい破滅は、芸術。

 客人よ、本当に好きなら、夫人の同意を得たうえで、彼女をさらって逃げなさいな。実際に現実には、一度も、話をしたり触れ合ったりしていないのは、寂しいなあ。お二方よ、死を選ぶのが、現実をあきらめるのが、早過ぎます…。

 ーなあんて、無責任に、野暮で無粋なことを、現実的で現代的なことを、考え始めたから、わたしは、この小説から覚めて、現実に戻ってきたようだ。

   (2020年1月24日 第34刷発行)

講談社選書メチエ「対称性人類学  カイエ・ソバージュⅤ」(全5巻 最終巻)

著・中沢新一

 シリーズ最終巻。

 手品で言うなら、種明かしの場面のような。

 推理小説で例えるなら、謎解きの章のような。

 爽快感! 

 頭の中で、すべてのピースがぴたっと合わさって、パズルが完成したみたい。しかも、かけがえのない、パズルだった。

 達成感!  いえ、わたしは読んだだけ、受け身なだけですが。

 これまでの巻の登場人物たちが、すべて舞台上にあらわれて、新しい登場人物たちと共に活躍する、一つの壮大な物語の、クライマックス。そしてこの最終幕で、真の主役が、ようやく現われた。グランド・フィナーレ

 高揚感!

 

 このお話の真の主役は「無意識」でした。

 Ⅰから登場していました。「流動的知性」という別の名前で。

 「抑圧された無意識の歪み」が原因で、「無意識の新しい活用」が答え。

 

 わたしの知力では、このシリーズ全5巻を、適切に、正確に、読み解くことは、できなかったかもしれない。

 ただ、こんなわたしだけど、楽しく遊ぶことは、できたよ。

 そう、わたしは、このシリーズをとおして、自分とは無縁・無関係・高嶺の花だと思っていた「思想」と、楽しく遊んでいたんだ。

 高値の花と遊ばせてくれて、ありがとう!

 

 長文です…。

 

 

 序章 対称性の方へ。

 「神話と科学とのあいだには、ほんとうの断絶などは存在しないのです。」

 神話も科学も、二項操作による論理が、基礎的な道具として組み立てられる。

 だけど神話の思考は「アリストテレス」論理をくつがえす。

 現実の世界の行動は、非対称性を原理として動いている。そこで神話が、対称性の論理を発動させる。

 例えば。人間と山羊。人間と動物。狩るものと狩られるもの。それが現実。だけど神話では、人間は山羊に変わり、山羊と結婚し、山羊は掟を守る人間に、肉と毛皮を差し出す。

 神話的思考は、「分離すること」つまり非対称性の原理と、「絆をつくりだすこと」つまり対称性の原理などとのあいだに、バランスをつくりだそうとする。

 科学は完成品の段階では、非対称の原理を使って動いていく。しかし、科学の発見は、しばしば、対称性の空間でおこなわれてきた。神話も科学も、同じ現生人類の心が生み出す、思考の産物。

 しかし、対称性を取り戻そうとする神話的思考は、「思想」というものを、生み出す。

 それは、科学的思考からだけでは、ぜったいにつくりだすことができない。科学的思考は、非対称性の原理としての性質をそなえているから。

 「そして、この「思想」だけが、今日の人類が抱えている深刻な危機からの脱出を可能にしてくれる、と私は信じます。」

 「なぜなら、私たち現生人類の心の構造が、それなしにはバランスのとれた健全な発達をとげることのできないように、出来上がっているからです。」

 「思想」って。堅苦しく気難しいキャラだと敬遠していたけど、そのご先祖は「神話」という、気のおけない不思議さんで、親近感を持ちましたよって感じ。

 第一章 夢と神話と分裂症。なぜここに「分裂症」という言葉が出てくるの?と思いました。

 対称性の思考は高次元を必要とする? 

 三次元の空間の中では、一つの椅子に二人が座ることはできない。だけど四次元以上の空間の中では、二人の人間が同時に一つの椅子に座ることも、テニスボールの裏表をひっくりかえすことも、靴ひもに触らないでもほどくことも、できる。

 高次元の成り立ちをした空間の中でこそ、対称性の論理は自由に動き回ることができる。

 山羊であり人間でもあるものが暮らす洞穴は、高次元の空間だったのか!

 神話の世界の、筋書き・登場人物・設定の、摩訶不思議さは、そこが、三次元ではない、もっと高い次元の空間だったからだった! 数学で説明できることだったのか! 数学って、こういうすてきな活用法があったのか! 

 アリストテレス論理のくつがえしといい、不思議で荒唐無稽に見えるけれど、神話には、一貫した論理がある、ということが、改めて、よくわかった。

 対称性による思考は、現実の世界の中では生きにくい。はい、わかってきました。

 神話的思考・対称性の原理の、価値と魅力だけでなく、その非日常性・繊細さ・危うさも、よくわかってきました。「Aは非Aである」と言ったり、高次元でこそ通用するものを三次元で使おうとしたりするのだから。

 アマゾン流域に住んでいた先住民は、「私は鸚鵡だ」と言っても別に仲間から変な目で見られたりしないけれど、これを私たちの社会でやると危険、という例え、愉快です。

 神話の特徴はすべて、「無意識」にもあてはまる。

 分裂症、最近の言いかたでは「統合失調症」だけど、あえて「分裂症」で。

 「無意識」の特徴は、分裂症の論理にもあてはまる。

 無意識のしめす原理、それを精神科医マッテ・ブロンコが「対称」の原理と呼んだ。

 神話の知恵と分裂症の妄想とが、深いレベルでの構造的一致を示している。

 「神話はむしろ、人類に正気をもたらしてきたのです。その神話と同じように、無意識の働きにナイーブな通路を開いているにすぎない心の持ち主たちは、私たちの社会では病理の扱いを受けて、排除されるのです。」

 第二章 はじめに無意識ありき。「無意識」、これが、主役でした!

 早熟なネアンデルタール人

 ネアンデルタール人のしゃべっていた言葉には「無意識」がなかった。

「無意識が豊かに発達するためには、長い未熟期間が必要です。現実への敏捷な対応を求められる環境では、外界の現実からある程度自由になった知性活動の領域が、無意識系として形成される余裕を残しません。ネアンデルタール人の子供たちがすぐに大人に成長をとげてしまっていることから判断するがぎり、彼らには無意識の発達に必要な準備期間が十分になかったと考えられます。」

 数万年前、現生人類の大脳に起こった革命的な組み換えにより、流動的知性が、運動を開始した。

 「高次元の成り立ちをした流動的知性」が、フロイトが「無意識」と呼んだもの。

 現生人類とははじめて「無意識」をもってこの地上に出現したヒトである。

 現生人類の「心」の心の本質をかたちづくっているもの、それは無意識。

「~未熟な状態で生まれいつまでも自分を養ってくれるものの胸から離れようとしなかった現生人類だけが、無意識系を発達させた「心」として持つことができたとも言えるでしょう。」

 フロイトは、無意識を、「心」の中の抑圧された部分、として理解しようとした。

 だけど。「無意識は私たち現生人類の「心」の基体なのです。」

 これからも便利だから「無意識」という言葉を使うが、否定的な意味はまったくない。

 「無意識」とは、対称性の論理によって動く高次元の流動的知性。

 「無意識こそが、現生人類の大脳に実現された新しいタイプのニューロンの接合様式によって、はじめて可能になった心的現象なのです。」「それは高次元の流動的知性として、現実に適応したさまざまな知性領域には縛られない、自由な活動をおこなうようになりました。」

 「無意識を持つことによって、私たちの心は現実から自由であることも可能になったのです。」

 バイロジック(複論理)。

 非対称性の原理と対称性の原理、人間の心はこの二つの存在様式が同時作用をおこなう「バイロジック」として出来上がっている。

「はじめに対称性の無意識ありき。来るべき時代の福音書には、そのように語り出されなければならないでしょう。」

 言語の構造にしたがって論理的に思考する、もう一つの「心」の様式が生まれる。それを「意識」と名づけておく。

 第三章 <一>の魔力。<一>??

 折口信夫南方熊楠。「どうもその人の心的傾向において対称性論理の活発な人ほど、神話学とか民俗学とか人類学のような学問に惹かれるという傾向があるのではないか、と私などは勘ぐっているほどです。」、こういう私見、好きです。

 「カイエ・ソバージュⅢ」で経済について読んだ。だけど、「対称性の原理」「高次元」「バイロジック」といった言葉を使って、改めて説明されると、わかりやすい。 

 贈与される物の価値は、たくさんの価値を「圧縮」していて、多次元的(高次元的)。だけど貨幣価値は一次元の数値で表現できる。

 わたしたちの社会の経済活動は、贈与と交換という二つの原理のバイロジック的な組み合わせとしてつくられている。だけど交換の原理が強くなりすぎて、社会全体でバイロジックがうまく作動しなくなっている。

 「Ⅳ」で読んだ宗教に関しても。「バイロジック」という言葉で改めて説明されると、わかりやすい。

 無意識の内部で、スピリットとグレートスピリットには完全なバイロジックな関係がなりたっていた。この状態に終止符を打ったのが、一神教の神の出現、ユダヤ教の発生。「~いろいろなレベルでのバイロジックな均衡が壊されて、矢のような一方向の向きをもった時間意識に突き動かされる「歴史」の感覚が、地球上に蔓延することとなりました。」

 「現生人類の「心」に対称的かつ高次元な無意識が働き続けているかぎり、バイロジックな社会でなければ幸せになれない、というのが厳然たる真理なのでしょう。」

 「一神教や、一神教と結合した資本主義にたいして、私たちは今日、精霊の主張する対称性の思考の側に立った、誇り高い立場からの批判的解明を試みるべきです。」

 「「日本人には宗教性が乏しい」などという言いぐさを、逆手にとってやろうではありませんか。」「宗教性が乏しいかわりに、私たちには精霊の世界との近さという、野生の豊かさが残されているのですから。」

 <一>の覇権。南アメリカのアマゾン河下流域で生活する、グアラニ族。過去数世紀にわたって輩出した預言者たちは、口をそろえて語った。地上は悪に覆われてしまった、なぜなら地上に<一>の原理が出現して、それによって人間の世界が醜く変貌してしまったからだ。

 ここで<一>の原理と呼ばれているものが、非対称性の論理にほかならない。

 先住民は、自分たちに迫ってきているものが、漠然とした脅威ではなく、単なる外国人でもなく、自分たちが生きているルール・システムとはまったく別の、異質なルール・システムであると、認識していたんだ。

 先住民は、欧米人と比べて、知能が劣っているのではない、知性が乏しいのではないと、以前から理解していた。だけど、このシリーズを読み、しみじみ、感じた。使いかた、表しかたが、「違う」だけ。「未開」「遅れた」「後進」という言葉は、使うべきではない。

 <一>の原理によって汚されていない世界とは? 対称性の論理が思い描いた輝かしい理想の世界。

 「もちろんそういう理想の世界は、かつて一度たりともこの地上に実現されたことはないし、また未来にも実現されることはないでしょう。」

 「しかし、そのような理想の世界を、思考によって正確に思い描き、神話の力を借りて途絶えることなく語り続けることによって、先住民の文化は人間を堕落させることはなかった、と言えるのではないでしょうか。」

 「~物質的貧しさとひきかえに、この社会は人間の魂に崇高さをあたえることができました。」

 「一神教の神の出現」と「資本主義の出現」と「国家の出現」とは、深い内在的なつながりがある。それぞれが本格的に出現したり、発達したりする時期は違っていても、そこには一貫して<一>の原理が貫かれている。

 「そして近代の西欧において、それまではバラバラに発達してきた三つの領域における<一>が一堂に会し、たがいに同盟を結び合ってひとつの統一体をつくりだすという、かつてない事態がおこりました。」

 「そこではキリスト教と産業資本主義と国民国家がひとつに結んで、もはや地球上のほかの誰もが太刀打ちできないような、強力な統一体をつくりだしたのです。」

 第四章 隠された知恵の系譜。

 私たちの「心」は、対称性の無意識と、非対称性な働きをする意識の、バイロジックとしてつくられている。

 「二つの異なる原理のバランスのとれた協同作業によって、~三万年以上もの長いあいだ、地球上に人間の生きる比較的慎ましい領域をつくりあげてきたのでした。」

 ところが<一>の原理の、非対称の論理の、出現。

 「現代世界をつくりあげているこうしたシステムの多くは、とてもすぐれた面をもっている反面、かつてないような不幸の感覚を生み出していることも、また真実です。」

 その原因は。非対称性の論理が、無意識の働きに、抑圧や歪みをつくる。そしてその論理が生み出す働きが、かつてない不平等と暴力とを地球上に生み出している。

 無意識の中から直接出現する、新しい知性の形態を創り出していくこと。そのような試み自体を、あらためて「対称性人類学」と名付ける。かつては神話が対称的知性の一形態だった。 

 「神話的思考や宗教や経済活動の内部で、いったいどんなふうにして無意識が作動しているのかを、徹底的に調べあげることによって、高度に発達した技術と資本主義の社会で「よい働き」をすることができる、かつての神話とは違った新しい知性の形態が生み出されるための条件を、この対称性人類学という学問をつうじて、探っていってみようと思うのです。」そのような知性の原型を、国家をもたない多くの社会が「特別な知恵」として伝えてきた体系の中に、みいだすことができる。

 「知恵」は「対称性の論理」によって作動しているために、日常的な社会の求めるものを破壊しかねないから、危険なもの、だから秘密にされていなければいけない。「人間の「心」の原初に近づいていけばいくほど、人間は危険の領域に接近していくことになるのです。」

 怪物。対称性無意識が生み出すさまざまなイメージの中には、人間と動物のハイブリッドである半人間ー半動物のイメージがふんだんに詰め込まれている。ラスコー洞窟の壁画にさえ。ジョルジュ・バタイユというフランスの思想家はこういう「心」の働きを「呪われた部分」と呼んだが。

 「~ホモサピエンスの「心」においては、まさにこの「呪われた部分」こそがまっさきに脳内に生まれ出て、「心」の現象すべての基体となったのです。」「思考が怪物を生み出すのではなく、怪物から思考は生み出される、というわけです。」、このお話、そそられます…。

 第五章 完成された無意識ー仏教(1)。

 以前、仏教について少し読んだとき、大乗仏教ではなく、上座部仏教に惹かれる自分に気づいた。

 ブッダ自身の教えから遠くなった大乗仏教と、その中の日本仏教について、日本人として、どうとらえるべきなのか戸惑った、って、一俗人・一庶民に過ぎないのですが。だけどこのシリーズを、この本を読んで、大乗仏教と日本仏教について、見直すことができた。「ブッダ」ではない視点からだったけれど、大きな可能性を知って、安心した、って、一庶民に過ぎませんのに。

 著者のなかたの、ネパールでの体験。清々しい風のよう。印象に残った。現代を動かしている論理とは、まったく違う論理で生きている人々との交流こそ、現代における宝物だと思った。そして、その交流によって心が受けた衝撃こそ、うちに帰ったときの、一番のお土産になると思った。

 「対称性人類学は「抑圧されていない無意識」の働きを、できるだけ純粋な形で取り出してこようとする試みですが、仏教はすでに二千数百年も前から同じ試みに取り組んで、その思想を哲学や共同体の形として、現実世界の中に表現し、実現しようとしてきました。」

 「しかしその仏教も、ここ数百年のあいだはさしたる思想的発展もなく、~社会の一角にこぢんまりとした場所をあたえられて、そこに安住してしまうようになってしまいました。」

 「仏教の思想は、根本の構造から言って、一神教型の資本主義の原理を鋭く批判して、それを乗り越えていく道を、人類に指し示すことのできる能力をひめています。」

 「ところが、学問や制度になってしまった仏教には、もうそんな力は残っていないように感じられます。」

 仏教は今の私たちに残された、数少ない精神的資産。「グローバリズム」と呼ばれる一神教型資本主義にたいして、「野生の思考」だけでは立ち向かうことはできない。そのことは歴史が冷酷に証明してしまっている。

 精神分析学の伝統では、無意識こそが妄想の源泉。仏教の思想的伝統では、無意識こそが、自己への執着を捨てさせすれば、正しい認識である「悟り」の湧き出す源泉。

 「仏教が挑戦したのは、すでに国家というものが発生して、自然と人間とのあいだにバランスをつくりだしていた対称性ー非対称性のバイロジックな均衡が破壊されてしまった後の世界に、失われたものよりもさらに高度な均衡を生み出すための道を、探求することでした。」

 その結果として仏教は、流動的知性つまり無意識の働きに、注目することになった。

 野生の思考には、仏教としてのつぎの発達段階があったのだ。 

 「私たちは仏教を宗教として見ることを拒否しなければなりません。」

 「仏教はむしろ、私たちがこれから生み出そうとしている新しい対称性の知性の、もっともすぐれた先行者とみなすべきです。」

 「~仏教は現生人類の「心」の基体である無意識の働きを抑圧するどころか、その反対に無意識の働きを全面的に発達させ、その働きを完成に近づけていこうとしているからです。」

 第六章 原初的抑圧の彼方へー仏教(2)。

 『般若経』では流動的知性の働きを全面的に発達させたときに、人間の「心」にあらわれてくる知性を「空」と名づけ、この「空」にもとづいた生き方を探求しようとしている。

 そのあとに登場した『華厳経』の思想。「空」の内部構造はどうなっているのだろうか、という探求。

 仏教では流動的知性の働きを「法界」と呼ぶ。そして「法界」は「完成された無意識」。

 無意識はひとつの秩序をもった、巨大な大陸。仏教は、現実世界で通用している論理とはまったく異質な、無意識を動かしている「別の論理」を、全体真理の認識にまで高めようとしている、と言える。

 龍安寺石庭。芸術表現の分野での、野生の思考としての仏教の冒険のあと。職人たちの思考が仏教の存在思想と、とても深遠なレベルでつながりあっている。

 洞窟のある西欧庭園。庭園は、ふつうの世界では抑圧されてしまっている無意識への通路。一神教的な西欧社会のおこなってきた無意識の取り扱いのやり方を、庭園が目に見えるやり方で表現している。

 龍安寺石庭のような日本庭園と、洞窟を持つ西欧庭園は、無意識にたいして、鏡の像のような反転した態度。記号表現が無意識を抑圧すると、そこに記号内容がつくりだされる。そこから意味が発生する。ところが石庭は意味と象徴を解体しようとする。石と砂と苔だけでできたその庭園には、記号内容はない。純粋な記号表現だけでできた「空」。

 日本庭園も西欧庭園も好き。だけど、前者を見たとき感じるものと、後者を見たとき感じるものは、なんだか違うと思っていた。違うのは、当然だったのね。もっとも見ると言っても。映像と写真と昔の思い出…。

 対称性の思考の理想は「空」。ホモサピエンスが出現した瞬間から、すでにその「心」には仏教が芽生えていた、と言えるのかもしれない。

 第七章 ホモサピエンスの幸福。

 私たちの「心」の基体をなす、流動的知性=対称性無意識は、どんな状態が自分のなかに実現されているとき、それを幸福を感じるのだろうか。

 人間の幸福にとっては、無意識のなかで作動している対称性の原理がもっとも大きな働きをしている。ホモサピエンスの幸福は、無意識なしには、考えることも想像することも現実化することもできない。

 恋愛に夢中になっているとき。「いつまでも続いていく愛」とか「終わりのない愛」とか。「ほかのことは時がたてば変化し、消えていくものなのに、幸福感のなかにある恋人たちは、自分たちのいま体験している状態が、際限もなくいつまでも続いていくような感覚に包まれるものです。この無限の感覚は、あきらかにそのときの恋人たちの「心」が、対称性の原理に支配されていることを物語ってします。」

 「同質性をもった感情によってつながりあっているという恋の感情が、無限集合と同じ構造を持った無意識の働きを活発にして、このような感覚や表現を生み出しているのだと考えなれます。」

 性的体験も宗教的体験も、同じ対称性無意識を舞台としてあらわれる、二つの異なる悦楽のあらわれ。

 「そして、無意識が自由に対称性の運動を楽しんでいるときに、「心」は言いしれぬ幸福感にひたされています。」

 「どの場合でも、「心」のなかで対称性無意識の働きが、分離された世界で失われた感情の通路を、ふたたびつくりだそうとしています。宗教においても、日常生活においても、幸福感と対称性は一体です。」

 芸術は無意識のよろこびに根を下ろす。資本主義は、改造された無意識から、別種のよろこびを引き出そうとしてきた。しかし非対称的に改造された無意識の作動は、対称性無意識に耐え難い苦痛をもたらす。芸術と資本主義のあいだの、矛盾とパラドックス

 「ホモサピエンスの幸福感がどこからわきだしてくるのか、その源泉の場所はほぼ突き止めることができましたが、私たちにはまだ正しいボーリングの方法が見出されていないからです。」

 第八章 よみがえる普遍経済学。

 フロイトが無意識の作動の中から取り出して見せた「死の衝動」。

 死の衝動をはらんだ超越性、バタイユが「至高性」と名づけたものが、どんなにささいな経済活動であっても、作動している。

 「こういう至高性や死の衝動のことを、本質的な部分に組み込んである経済学は、まだつくられたことがありません。」

 「世の中で通用している経済学のほとんどすべてのものが、ただ「生の衝動」のあらわれ方を、手を替えて品を替えて理論的に表現しているにすぎないように思います。」

 「経済システムをつうじて、ホモサピエンスのが真実の幸福を体験できるような経済システムを構想するためには、無意識の作動と経済システムの関わり合いを、~深い部分で考え抜いてみる必要があります。」

 数学の不思議さは、それが無意識の領域の出来事まで記号にしてしまうことができること。しかもその記号は厳密な論理の規則にしたがわなければならない、というのが数学のルール。

 「それによって、対称性の論理で動いている無意識の領域の出来事が、厳密に非対称的な論理で表現されるという、希有のことがおこるわけです。」 

 こんなふうに説明されると、数学って、四角四面でつまらないと思っていたのに、本当はミステリアスで妖しいキャラだったのねって感じ。

 終章 形而上学革命への道案内。

 「思考が自分の根源の場所を見失うようになる、~むしろ積極的に根源の場所を見失おうとする努力の中から、いま私たちが生きているこういう世界がつくりだされてきました。」

 一神教による形而上学化の革命。モーゼの神がおこなったことは、対称性無意識を、言葉の論理によって抑圧する「原初的抑圧」を、神聖な輝きで包み込むことだった。「あらゆる種類の秩序の源泉でもあったわけで、その神の輝きの前には、人間の「心」の基体である無意識などは、論理も秩序ももたない「カオス」の中に埋没していってしまいます。」

 抑圧したものが回帰してくるときに、人は悪夢を見る。だから国家も、資本主義も、悪夢を見る。

 「一神教」と「国民国家」と「資本主義」と「科学」。これらがひとつに有機的に結合できる条件をそなえていたのは、地球上に近代の西ヨーロッパをおいてほかはない。

 「西ヨーロッパ社会は、社会のすべての領域で、数百年をかけて「形而上学革命」をとことんまでなしとげていたので、こういうことが可能になったのです。」

 しかも「一神教」「国民国家」「資本主義」「科学」は、いずれも形而上学の形態として、「同型」。

 「同型」による支配が全面化されていくこと。それがグローバリズムの正体。どうして世界はグローバル化していくのか? それはホモサピエンスの「心」に、形而上学化へ向かおうとする因子が、もともとセットしてあるから。

 「その因子がはらんでいる危険性を昔の人間はよく知っていたので、それが全面的に発動しだすのを、対称性の原理を社会の広範囲で作動させることによって、長いこと防いできました。それを最初に突破したのが、一神教の成立だったのです。」

 「その意味ではモーゼとヤーヴェの出会いほど、人類の命運に重大な帰結をもたらしたものもないでしょう。宗教をゆめあなどってはいけません。」

 現代世界のすべての問題の原因は、突き詰めれば、モーセ、って気がしてきた。タイムマシンに乗って時間をさかのぼり、このかたに歴史から退場していただいたら、どんな世界が現われるんでしょう、地球は美しいままでしょうか…。

 「対称性無意識とは、私たちの「心」の働きを生み出している「自然」にほかなりません。」

 「形而上学化された世界をもう一度、対称性無意識の働きによって「自然化」する必要があるのです。」

 「そのとき、人間は自分たちに最初の飛躍をもたらしたのと同じ流動的知性の力によって、未知の形而上学革命を実現していくことでしょう。」

 「無意識」が「自然」だった。

 自然を大切にって、よく言われる、よく言う。

 だけど人間が何よりもまず大切にしなければならない自然は、自分の頭のなかにあった。

 そこを知らなければ、そこを守らなければ、自分の外側に広がる自然を守ることは、できない。

 「自然に帰れ」とも言われる。

 自然に帰るためにできる、もっとも単純なこと。自分の頭のなかから響く、心の奥から湧き上がる、声を、聞くために、耳を澄ませる。

 家を飛び出したり国を捨てたりするよりも、まず。科学技術製品を拒否したり農業を始めたりしなくても。耳を澄ませる。それだけでも。なにか、変わるかな、なにかに、つながるかな。

 

 読んでいて、こんなに疲れた本、こんなに頭の奥にショックが響いた本は、久しぶりでした。

 このシリーズのおかげで、自分とは無縁・無関係・高嶺の花だと思っていた「思想」と、仲良くなれた、かも、しれない。

 

 以前から、「ペン」という武器を使い、戦っている人たちを、尊敬していた。

 このシリーズを読んで、気づいた。ペンを動かす力は、「思想」だと。

 そして今、改めて。「思想」という道具を使い、戦い続けている人たちを、尊敬する。

 映像には向いていないよね、だから、手軽に気軽になんでも見られる今の時代なのに、見えにくのかな、その戦い。世界は、この戦いに、注目するべきなのに。

 この戦いを見るためには、何よりもまず、やはり、本を、字を、読むこと。

 わたしにできる参戦って、あるかな。ある。本を買うこと、そして本を読むこと。

 ささやか過ぎるでしょう…。もっと行動しましょうよ、たの葉…。

   (2018年8月20日 第15刷発行)

 

講談社選書メチエ「神の発明  カイエ・ソバージュⅣ」

著・中沢新一

 この本の中で「スピリット」と出会った。

 「スピリット」? なあにそれ、知らない、と、最初は思った。

 だけどそれは、例えば、水木しげるの漫画にみちみちてると言う。

 トトロも、それ。トロールも。座敷童も!

 精霊・妖精・妖怪などとして、わたしが認識していたもの。

 それらが「スピリット」だった。

 だけどわたしは、理解していなかった。もしかしてノンフィクション!?ではなく、ノンフィクション、であると。

 「妖精・妖怪は実在する」という、すてきな意味ではない。

 これらは、人間の脳のなかから、人間の心のうちに、現われた。

 現生人類の脳の構造には、そういう特殊な場所がある。

 これらは、「脳組織に発生した「超越性」の思考」。

 「超越性」の直観が、「スピリット」の活動として、表現される。

 出会うも何も。知らないも何も。わたしも一応、現生人類という種の一員。妖精たちはそもそも、わたしの頭のなかに存在している!? って考えると、楽しい。

 

 四巻目の主題は、「超越性」の発生。

 つまり、やがて、宗教のお話になっていく。

 「神々」の変遷を、追っていく。だけどそれは、わたしたちの「心の構造」の変遷を、追っていくことでもある。

 宗教とは、心の構造の深遠な表現だから。

 この本の内容には、不思議な難しさがある。自分の外側の世界のことであり、自分の内側の世界のことでもある。「あちら」と「こちら」を行ったり来たり。「あちら」を見て「こちら」を見る。不思議な気分になるのは、わたしが、現代の人間だから。

 古代の人々は同時に見ていた。古代の人々には一つのものだった。「あちら」と「こちら」という区別はなかった。それが、スピリットとともに暮らすということ。

 そしてそれは、わたしたちが二度と戻ることはできない世界だった。

 

 心に入って外に出て。その繰り返し。目が回って、わたしの読解力は平衡感覚を失った。わたしの解釈・要約、よろめき過ぎて、白線を踏み越えていませんように…。

 

 「カイエ・ソバージュⅠ」を読んだときに、一応、理解した。

 だけど、だんだん、いよいよ、身に沁みてきた。人間の脳が、人間の歴史を作ってきたこと。

 人間の歴史を本当に理解するためには、人間の脳について知るべきなんだ。現生人類の脳の成り立ち・構造・働きを理解することで、人類史が、もっと理解できるようになる、もっと面白くなる。

 

 「青い鳥」!?

 

 序章。近代になって、神は死んだ。「~近代の意識というものは、この神の存在の不確かさの感覚から発生しているのです。」

 「しかしそういう時代になっても、大きな戦争がはじまったりすると、大統領の口からはさかんにゴッド(God)という言葉が発せられて、~」「私たちの多くがこの光景に違和感をもつのは、「神」というものが絶対的な正義と結びついたりする発想法に、なじめないからです。」

 近代の日本語には二種類の「神」がいる。

 ゴッドとしての神、キリスト教とともに入ってきた神、「超越者」。

 そして「カミ」。自然表現と結びついた具体的なイメージを持つ。「スピリット」の世界との密接なつながりを失っていない。

 「神」という言葉で、ゴッドとしての神とスピリットとしてのカミを一緒にしている、そのためにいろいろな場面で混乱が生じて、一神教に対する私たちの理解を歪めている、なるほど!

 スピリットが神に進化したのではない。神の出現は、進化でも必然でもない。ならば、なぜ、神が出現した?

一神教の思考法が作り出したさまざまなシステムは、経済・社会・科学などのあらゆる分野で大きな影響力をもって、今や地球上に単一のグローバル文化の網を張りめぐらそうとしていますが、私たちがそれに飲み込まれてしまうことなく、独自の生き方やものの考え方などを育てていくためにも、このことの理解は必要です。」この趣旨に、感銘を受けました。

 副題が、すてき。「スピリットが明かす神の秘密」。古いつきあいのスピリットたちは、自分たちのところから出世した神の、秘密や弱点を、他の誰よりも知り抜いているはずだから、ですって。

 第一章。

 コロンビアのアマゾン源流地帯に住むトゥカノ・インディアン。熱帯の森林地帯の、スピリットの王国。森の中をさまよって人間を怖がらせたり、洞窟や岩の割れ目を住処として人間に動物を狩る許可を与えたりする、さまざまなスピリットたち。

 内部閃光、内部視覚。生理学者と人類学者は、同じ現象を研究していた。

 西欧科学は内部視覚の問題を、精神活動に還元する。

 古代人・先住民は、内部視覚を「スピリット」という存在に結びつけた。「スピリット」とは、超越的体験を説明する原理。

 副題、「脳の森の朝」。初めて見たときは「?」。だけど。わかった。感じた…。

 第二章 はじめての超越。

 人類最古の「超越」、古代技術としての瞑想。それは、「スピリット」とコンタクトし、彼らの空間に入っていくための技術。

 現生人類の脳は「超越的なものごと」について自由に思考できるようになった。ただ長い間、現生人類の、その能力は、外に開かれた自然と、対称的につながっていた。それが、スピリットとともに暮らすということ。つまり、「知性」は偉い、「知性」を持つ人間は特別と、考えなかったってこと。

 第三章 神にならなかったグレートスピリット。

 数が多く種類も多いスピリットたち。そのなかの、異質で特別な存在、大いなる霊、グレートスピリット。

 偉大な「創造者」にして「律法者」、けれど、あくまで、スピリット世界の一員。

 アメリカ先住民、カナダ五大湖のあたりに暮らしていたオジブア族。彼らが、グレートスピリットに捧げた、祈りの言葉。美しくて、泣きたくなった。はるか昔の人々が、これほど美しい言葉を創造していたとは。現代の人間に、この美しさを創造できるだろうか? 泣きたくなった。

 スピリットと「グレートスピリット」は、同一の流動的知性が見せる、異なる姿。だけど、二つで一つのスピリット世界。

 第4章 自然史としての神の出現。「スピリットとともに暮らす世界」と「私たちが生きている世界」の違い。それは、人間の、心の構造の、違い。

 「メビウスの帯」。細長い紙をひとひねりして、その両端を糊付け。表と裏の区別がない、図形モデル。

 スピリットとともにある古代、それは、「メビウスの帯」に表と裏の区別がないように、「生者の世界」と「死者の世界」がつながっている世界。

 「メビウスの帯」を真ん中で切り裂くと、この輪に表と裏の区別ができる。表から裏へ、裏から表への移動は、もう、できない。

 スピリット世界に、同じような輪の切り離しがおこった。

 この、心の構造の変化は、王と国家の発生の場合と、同じ。

 現生人類の分岐点。

「自然と人間とのあいだに対称性を保ち続けようとした社会の中から、王と国家が発生するのといっしょに、スピリット世界の内部からは神が出現するのです。」

 わたしはスプリットの王国で、暮らしてみたかった…。

  第五章 神々の基本構造(1)-メビウス縫合型。

 スピリット世界の対称性が、自発的に破れることによって、多神教の宇宙が出現した。脳の同じ場所に。ただ心の構造は変わった。

 多神教宇宙、それが、非対称性社会への序章。でもまだ、だけどやはり、序章…。 

 スピリットたちは、姿を変えた。「グレートスピリット」は「高神」へ。スピリットたちは「来訪神」へ。

 多神教宇宙=高神+来訪神+残余のスピリット

 わたしは、南より北に、惹かれる。日本史は大好きだけど、沖縄などの南西諸島の歴史には、興味がなかった。

 だけど、南の島の、多神教世界のイメージの豊かさに、驚いた。南の島の魅力の、底の深さを、知った。輝く青い海だけではなかった。この地域を見る目が変わった。

 沖縄の「御嶽」の森。薄暗い小道の奥の、明るい子宮。すてきな表現…。

 そこに常在する「御嶽の神」は、「高神」タイプ。「この世」のことだけを問題とし、女性だけがお祀りしたりする、「非対称」な神。 

 南の島の人々を、現世的だと思っていた。この神の、無像性、抽象性、本土の神道の神と共通する、簡素・簡潔な感覚。その思考を、意外だと思ってしまった。偏見を持っていたみたい。反省しました…。

 多種多様な「来訪神」。悪石島の「ボシェ」。八重山諸島の「アカマタ・クロマタ」。

 「来訪神」は「メビウス縫合型」。「切れ込みを入れたメビウスの帯を、もう一度縫い合わせる機能」をもっている。分離され、区別されてしまった、「あの世=他界」と「この世=現実世界」のつながりを、回復させる。失われた「対称性」の一部を取り戻そうとする精神の動きが、来訪神を生んだ。

 第六章 神々の基本構造(2)ートーラス型。

 「トーラス」も図形モデル。ドーナツ状の立体。中心に穴がある。決して埋めることのできない空虚な中心部を抱えている。

 精神分析学者ジャック・ラカンがあきらかにした人間の本質。人間がしゃべっていることは、すべて「比喩」にすぎない。「比喩」の構造あらわすとすれば、それはトーラスにほかならない。人間とは真ん中に空虚な穴のあいたトーラスだ。

 ラカンさん、なんということを! なんという真実をあきらかにしてくれちゃったんですか…。

 だから「高神」も。人間の条件を純粋化したものとして、トーラスの構造を備えている。トーラスの中心をなす空洞は、ことばによって表現不能な「超越性」をあらわしている。ただ高神も、あくまで、多神教宇宙の、一員。

 多神教宇宙は、「メビウス縫合型」=来訪神と「トーラス型」=高神という二類型の表現である神々によって、構成されている。

 多神教の宇宙は、沖縄や奄美のように、あざやかなコントラストで表現されているところは、めずらしいのですって。

 たとえば、日本列島本土の神社の神々の宇宙の場合。氏神は「高神」の仲間。「来訪神」の機能は、芸能と祭りが形を変えて果たしている。元の基本構造が見えなくなっているから、日本民俗学創始者たちは、悩んだみたい。

 「高神」はなんだかミステリアス、「来訪神」たちはみんな個性的、どちらも魅力的。この二つの神が共存する世界、楽しそう。この世界でも暮らしてみたい。

 第七章 高神から唯一神へ。

 「この世」に常在し「この世」のことだけを問題とする「高神」が、潜在的にもっていた、「非対称性」に向かおうとする傾向。多神教宇宙にあるかぎり、「メビウス縫合型」の神と共生関係を保ち続けるために、あらわにしなかったけれど…。

 「~出エジプトの体験とモーセの思想を通過したのち、「高神」は人間との間に絶対的な距離を保ち、ほかの神々の存在を激しい嫉妬心をこめて拒絶する、「唯一神」に変貌をとげたのです。」

 「人間の思考のうちにはじめて、絶対的に非対称な神が出現したのです。」

 ヤハウェを「唯一神」とすることによって、現生人類の脳に出現したスピリット世界の全体性を、突き崩そうとする人々が、ここに出現した。

 非対称性社会が、始まった…。

 第八章 心の巨大爬虫類。

 一神教が成立したごく初期の段階について。「高神」を中心にして構成された多神教宇宙が、「唯一神」のみの一神教に組み換えられていく過程でおきたことは、取り除きや破壊ではなく「抑圧」。スピリット世界が多神教宇宙に作り変えられたときは、心の構造がほんものの変化をおこした。だけど一神教の成立については、全体の配置転換がおこっただけ。

 つまり。わたしたちは、かつてのスピリットの王国に、帰ることは、できない…。

 「人間のおこなうどんな知的活動も、世界の全体真理のすべてを表現し尽くすことはできません。ことば的表現のとらえる「この世」はどうしても不完全なのです。」「ところが、神の知性だけが「完全」です。」

 人間の知性にとっては「非知(考えることができない、知ることができない)」であるものが、神の知性だけは知ることができる、という考えが一神教の中では発達していく。「神」とは「非知」の領域を包み込んだ、「完全な知性」の活動をあらわすことになる。

 欧米人って「完璧」って言葉をよく使う、「完璧」「完全」が好きよね、ーって、主に海外ドラマからの印象に過ぎず。

 「あの世」の領域への思考法が、「神秘主義」というレッテルを貼られることになる。「~多神教はそうすることで、「知の権力」が絶対に及ばない領域というものを、思考の中に、あるいは脳の中に、確保しようとしてきたのかもしれません。」多神教宇宙からの、魅力的な遺産だと、思った。「神秘主義」がなくなっちゃったら、なんだかつまらなくない?、という、軽く薄い理由で、無責任に、わたしは肯定的にとらえる。

 高神の規定は、唯一神にも適用される。「この世」に常在し、「この世」のことだけを問題とし。「この世」のことだけ…。そして、「トーラス」の真ん中に開いた穴を、中心の空虚を、唯一神だけがみたすことができる、みたさなければならない…。

 一神教徒の、純粋・愛の深さ・憎しみの激しさ・不寛容の、心の仕組みが、なんとなく、わかってきた…。

 そうか、わたしが「絶対的正義」に違和感をもつのは、わたしの性格がよろしくないってだけでなく、その考えかたに、非対称を感じるから。ならば「英雄・ヒーロー」も非対称的、だけどどうしよう、これは嫌いではないです。そもそも「善と悪の対立」という考えかたも、非対称的。一神教が、心の内部を徹底した「非対称の原理」にもとづいて組織し直したとは、そういうことかな。

 東北アジアチュクチ族の、神話。ワタリガラスを創造主とする神話、面白い、かわいい。だけどこの神話が語られてきた地域の人々は、聖書が語る「天地創造」を聞き、自分たちの創造主のいいかげんさが、恥ずかしくなったのだそうな。

 ワタリガラスが見せるいいかげんさの背景。世界はもともと不完全なもの、それを創造した知性も不完全なもの。「慎ましい」のですよ。恥ずかしがる必要など、なかったのです…。

 人間の知性も思考も、自然の全体性の中から生まれたもの、自然と一体、「超越性」などない。対称性社会では「知」は権力になることがなかった。権力の源泉は、自然の奥に秘められたものだった。

 「~キリスト教的な近代文明が、あまりに「知性」を偏重するあまり、「知」と「権力」とが一体であるような文明を、グローバルな規模で拡大しようとしてきた、そしていまも強力に推し進めている様子~」

 「知性」を「尊重」することを、疑ったことはなかった…。ただ、よーく考えてみたら。「知る」ことはそんなに重要? 「知らない」ことイコール愚か?「知る」ほうが、便利で有利だから? 結局やはり、効率? 成果? 創造主ワタリガラスのいいかげんさが、まぶしい…。

 「唯一神を生み出すにいたった一神教の思考の冒険は、人間に膨大な知識と富の集積をもたらしました。」「現代の自然科学も資本主義にもとづく市場経済のシステムも、もとはといえばキリスト教という一神教が地ならしをしておいた土地の上に、築き上げられたもの~」

 現代世界は西欧人が作ったとは思っていた。正確には「西欧人」ではなく「キリスト教」ね。この世界で生き抜くためには、キリスト教を理解しなければならないのね。でもキリスト教徒は、非キリスト教を理解しなくても、あんまり不自由せず生きていけるみたいという、不公平、非対称。

 副題の、「心の巨大爬虫類」とは、一神教のことだった。一神教は「心の巨大恐竜」。その表現に、納得、ぴったり…。

 終章 未来のスピリット。

 キリスト教の「三位一体」とは、多神教への妥協、ただ、繁栄のための正しい妥協だった。「聖霊」は、キリスト教に組み込まれたスピリット族の一員。この「聖霊」たちの自由な活動から、近代ははじまった。

 そして神は死んだ。近代は「亡霊化」したスピリットたちが開いた時代。

 だけど現代は、そんなスピリットたちも、死にかけている。ほんものの「超越性」の領域に触れさせる能力が、失われている。「超越性」への通路を、商品社会がふさいでしまった。

 あらゆるものを商品化し、情報化し、管理する、今日のグローバル文明。長い歴史を持つ諸文明を、宗教を、干上がらせた。しかし、そんな人類に変わっていないものが、ひとつだけある。「それはわたしたちの脳であり、心です。」

 「数万年の時間を耐えて、原初のみずみずしさをいまだに保ち続けている、現生人類の脳だけは、いまだに潜在的な可能性を失ってはいません。」

 「そこにはまだ、はじめて現生人類の心にスピリット世界が出現したときとそっくりそのままの環境が、保たれ続けています。」

 「根本的に新しいものが出現する可能性を持った場所と言えば、そこしかありません。私たちはそこに、来るべき未来のスピリットを出現させるしかないでしょう。」

 世界には、人には、「神」が必要だ、という言いかたには、抵抗を感じる。

 今の世界のさまざまな問題の原因と、今、生きている人々の不幸の原因は、「神」が死んだからだ、とは、思わない。

 だけど。世界は、人は、「スピリット」を忘れるべきではないと、思った。

 だって「スピリット」と一緒のほうが、きっと楽しい。

 わたしは世界と地球の未来について悲観的だ。

 だけど、希望を感じた。人間の脳に。

 人間を信じましょうってタイプじゃない、人間の心を過大評価するのは柄じゃない、だけど、人間の「脳のなか」は、信じてみようかな。

 

 わたしは、古代のスプリットとともに暮らしていた世界が、懐かしい、帰りたい。疲れている? いいえ、わたしの脳が忘れていないのかも!

   (2016年10月11日  第14刷発行)

 

講談社選書メチエ「愛と経済のロゴス  カイエ・ソバージュⅢ」

著・中沢新一

 まず、題名を見て、違和感。

「愛」はわかる。だけど「経済」?

 そしてページを開くと、「三巻目では、新しい贈与論の探求が試みられる。」

「贈与論」? 初めて聞く言葉。

 これまで、神話や哲学や動物のお話をしていたのですよ?

 「この世界に純粋に合理的なものなど存在しません。科学ですらそうなのです。 

 「矛盾のない論理で、この世界を覆い尽くすことは不可能です。」

 経済現象のもつ合理性は、表面にあらわれた偽りの顔、経済を突き動かしているのは、人間の欲望だから、人間の欲望は、非合理的だから。なるほど、そうえいば。

 そして愛もまた、人間の欲望をとおして、わたしたちの世界にあらわれてくるもの。そういえば、そうだ!

 欲望を通して「愛」と「経済」はつながっている。「愛」と「経済」は同じ両親から生まれた双子。

 なぜ、この兄弟の離反は発生するのか?

 「愛」と「経済」を一つに包み込んで、これからお話が展開されていく。「ロゴス」とは、世界を全体としてとらえる力。全体性の経済学。

 「神話的思考を動かしていたのと同じ人類の脳が、経済の現象をも突き動かしているのです。」

 序章を読み終えたときには、題名と主題に対する違和感が消えていた。

 

 序章で、志賀直哉の小説「小僧の神様」と出会う。

 商家の小僧(少年の使用人)が、お金が足りず、すしを食べることができなかった。その様子を見ていた貴族院議員が、後日、名前を伏せて、小僧にすしをごちそうした。この小説に、「交換」「贈与」「純粋贈与」という経済の三つの体制が現われていると言う。平凡な日常の、ささやかなお話に見えたのだけど。

 そうか、わたしという人間の単純な日常も、経済のシステムに支配されているんだと思った。意識していない。「経済」なんて、投資家や金持ちの話、わたしには関係ないわと思っている。だけどこのわたしも、「経済」という大きなシステムの、ささやかなほんの小さな一部なんだ。わたしの問題でもあると、認めなければ。

 

 王族・貴族・資本家という特権階級の人々の生活と人生に興味を持つようになったことが動機で、経済学に関する本を読もうとしたことが数回ある。だけど毎回、早々に、脱落! いつも、挫折!

 だけど、この本は。経済という全体的現象は、三つの異なった体制のからみあった構造としてできていると言う。それは「交換」「贈与」「純粋贈与」。この三つを中心として、お話が展開されていく。この三つを、なんとか一応たぶん理解できた、はず、だから、なんとか、最後まで読むことができた。

 今、わたしたちが生きている資本主義社会の中心は「交換」の原理であるという説明は、わかりやすかった。

 

 つまりは、科学的で具体的な、「愛を取り戻さなければ」ってお話だと、思いました。

 

 第一章 交換と贈与。

 贈与において。贈り物は、モノ=対象として、贈り手の人格から分離されていない。

 交換において。モノと人格の分離は、徹底的におこなわれる。

 人格性の一部が付着しているモノを、単なるモノとして商品にするための戦いの最初のステップは、市場がつくられたこと。

 「商品」という存在を、疑ったことはなかった。商品が生まれ、市場が拡大し、広い地域に流通していく歴史の過程を、「発展」だと思っていた。だけど、モノから、人格性・思いが削り取られて、等価で誰でも交換できる便利な「商品」となったと、考えると…。

「贈与において重要なのは、~モノの移動を媒介にして同じ方向に移動していく、流動的で連続性をもっているなにかの力の動きなのです。」

 その「なにかの力」とは、「信頼」「友情」「愛情」「威信」、あるいは「生命的な力」。

 つまり贈与とは「生命的な力の全体運動」。

 近代の社会は、デリケートで複雑な贈与の原理にしたがっている社会の全組織を、簡単で合理的な交換の原理にもとづくものに改造しようと、試みてきた。

 交換は贈与の中から生まれる。その過程は、人間の脳に、まず詩的機能が生まれてから、合理化・平準化により、通常言語が生まれた過程と、似ている。

 まず、現在のような消費生活と引き換えに失ったものを、具体的に、理解した…。

 第二章 純粋贈与する神。

 見返りを求めない・返礼ができない贈り物をもらうと、人は「これは神さまの仕業?」と思う。

 「贈与されるモノ」「贈与される人」「贈与する人」のうち、一つでも、同一性や個体性を失ってしまうと「超越者の思考」が入り込む。「贈与に吹き込む不思議な風」、ですって。すてきな表現。

 贈与の原理・交換の原理とはあきらかに違う、純粋贈与の原理。これは、人間が抱きうるもっとも美しい幻想の一つ。

 「純粋贈与」、初めて聞く言葉だと思った。だけどその別名は「自然」。そうか、たしかに、自然は人間に、見返りを、求めない…。

 「純粋贈与の原理」、今まで知らなかったと思った。だけど、わたしはすでに知っていたんだ。それは、自然と人間のあいだに存在していた。そして、宗教思想家が実現しようとしている原理の別名でもあった。

 第三章 増殖の秘密。

 石器時代の人々が洞窟で描いた「獲物となる動物が増えていく」という幻想・魔術が、「コルヌコピア」という概念へ。

「コルヌコピア」、もともとは豊穣の女神をあらわすことば、それが、現実の富を生み出す力を持ったものへ、やがてそれが、無尽蔵の富を与え、あらゆる願望をかなえてくれるものへ。その一つのイメージが「聖杯」という伝説。これが、資本主義への予言?

 わたしが理解するには難しい内容になってきました。その理由はたぶん、このあたりから「資本主義の構造」に、関わり、繋がる、お話に、なっていくから。そういうの、なんだかよくわかんないと思うわたしは、資本家にまったく全然、向いていないのでしょう。自分を取り巻く構造などわからず、ただ働いている、一介の労働者という身分が、相応ですわ…。

 第四章 埋蔵金から聖杯へ。 

 「富」とは、自然のおこなう純粋贈与が、現実の世界と交わる交点に出現する、はかない、消滅しやすいものだった。だけどいったんこの世界に出現した富が、「貨幣」として表現されると、消滅しなくなる。

 貨幣も、国家と同じ。新石器時代的な社会に革命的な変化を起こした、人間の心の構造の組み換えによって、生まれた。

 貨幣の、実体性・現実感を、疑ったことはなかった。だけど、よーく考えたみたら。それは、表現。その実体は、安価な金属のかけらに過ぎず、一枚の紙に過ぎず…。なぜみんな、金属のかけらと紙を、信じているのでしょう。貨幣って紙幣って、なんなのでしょう。わたしたちはみんな、大きな幻想を、信じているのね…。

 これまで、山羊や熊と結婚する神話を見てきたのに。挿入されている北欧神話『ウォルスング家のサガ』。黄金をめぐり、神と人が争い、親子が兄弟が争い…。なんて殺伐としているの。黄金(金貨)=貨幣が登場すると、人間は貪欲になり世界に不和が生じるという、これも、予言ですか…。

 第五章 最後のコルヌコピア。それは農業ですって。

 なぜ、人生に疲れた人間が農業に向かうのか、わかりました。

 純粋贈与の原理が、そこにある。大地は、与える、無償で。だけど大地を脅かしたり、無理を強いたりするのは禁物。人間が繊細な技術で立ち向かえば、大地はこたえる。人間と大地のあいだに絆が生まれるという、美しい幻想。

 重農主義の理論には「~「贈与論」の思考に立脚する魔術点が仕込んであります。」「魔術点」って、すてきな表現。

 詩的な想像力と贈与論的思考は、深いつながりを持っている。農業には贈与論的な構造がある。だから、宮沢賢治も、農業論を書いた。

 宮沢賢治の農業論。対称的な関係にあるもの同士が「たましい」の交わりをもとうとすれば、当然そこには贈与の原理による結びつきが発生する。交換は「たましい」の交わりを破壊する。神話的思考を動かすのは贈与の原理。

 重商主義者は交換の原理から富の増殖がおこると考えた。重農主義者は贈与の原理から、富の増殖はおこる、しかも「純粋贈与」が決定的な働きをすると考えた。

 剰余価値=純生産を生み出す力をもっているのは、大地だけ。

 人間の労働の贈与と純粋贈与する大地が出会い、交わり合うところに「純生産」は発生する。

 第六章 マルクスの悦楽。

 「自分自身を愛するのではなく、ほかの者を愛することによって、かえって自分自身が愛されることになる。」、この愛の本質、これはまさに、贈与としての愛のこと。これを書いた人はカール・マルクス。若い頃に書いた文章に、恥ずかしげもなく「愛」という言葉が乱発されている。意外。経済について考えていると、人について考えることになり、だから、愛について考えることになるのか…。

 工場労働者の苦しみは、低賃金で長時間働かなければならないことだけ、では、なかったんだ。精神的な苦しみ、それは「疲労」ではなく、「よそもの」感。工場労働者は、自分が使う機械とも、自分が機械で作った製品とも、親密な関係を見いだすことはできない、機械も製品も、自分の所有物ではない、別の人間、別の集団のもの。なるほど…。

 近代産業が発展させた労働スタイルに表れた、分離、切り離し、非人格化。それは、交換の原理の表れ。

 モノのやりとり・消費活動だけでなく、労働にも、三つの原理が作用しているんだ。

 価値増殖のトリック。「労働力」という特別な商品。一人の労働者として、このくだり、寂しい…。改めて考えると、「労働力」というモノって、なんなのでしょう。「労働力」の適正価格って、最低賃金って、なんなのでしょう…。

 マルクスは贈与の原理を組み込んだ、高度な産業社会は可能だと考えていた。それは資本主義の先?

 以前、気づいた。わたしが「社会主義」に対して持っていた、暗い怖いという、負のイメージは、社会主義国家が持つ問題点によるものではなく、マルクスの後を継いだスターリンという人間の個性が、大きな原因だと。スターリンという桁外れの悪役のために、社会主義という思想は損をして、資本主義というイメージは、得をしたんだろうな。

 第七章 精霊と資本。

 「贈与・交換・純粋贈与」の図式は、キリスト教の「子・父・精霊」の図式と同じ。

 資本主義とキリスト教は、同じ思考の様式から生み出されてきた、双子の兄弟である。

 同じ思考の様式が経済の領域で素直に表現されると資本主義になる、だけどそれが現実の経済となる以前に、ヨーロッパ社会はそれを神についての思考、キリスト教の神学という形で、表現していた。

 兄はキリスト教。弟にあたる資本主義は、いつのまにか兄の権力を奪った。

 と、教えられても、驚きません!

 歴史が好きなわたし。ヨーロッパの歴史に関しても、いくらか、本を読んできた。ローマという都市の、ローマ教皇庁の、ローマ教皇の、歴史も、少し、見てきたから。

 カソリック総本山における、かつての、往年の、あの、華麗・栄華・贅沢・浪費・貪欲を、知っているから! 

 「宗教」と「贅沢」の共存に、違和感を覚えたこともあるけれど、気づいていました。「キリスト教」は「お金」と相性が良いらしいと。

 わたしの小さな狭い知識のなか、に過ぎませんが。仏教国では、そしてイスラム教国でも。王さまが贅沢をしたって話は見かけても、宗教指導者自身が、とてつもない贅沢をしたってイメージは、ないのです。

 腐敗・堕落したカソリックに対抗するために生まれた、プロテスタント。だけど彼らのほうがお金との相性がもっと良かったこと、彼らの国で資本主義が発達したことは、皮肉ではないかと。それに、お金との相性の良さは同じで、やはり富と仲良しになるのだから、やはり、キリスト教は…。

 もしかして、西欧人はわざわざ「経済・資本主義」という分野を勉強する必要はないのかも。キリスト教徒として生まれ育ち、生活していれば、意識して学ばなくても、ある程度はいつのまにか身についている能力・技術なのかも。もし、そうだとしたら、すごいアドバンテージ。近現代の経済競争において、彼らが勝つのは、当然。非キリスト教徒と非キリスト教国家には、フェアなスタートでも競争でもない…。

 クリスマス。それは資本主義の夢の実現者。「資本の増殖」と「霊の増殖」を一緒にお祝いする。交換の原理と贈与の原理が愛で結ばれる。なるほど! 確かにクリスマスは、愛とプレゼントを、贈り、受け取る。「たましい」も、物質的にも、豊か。だから一人で過ごすクリスマスは、寂しさも二乗なのか。クリスマスに一人で過ごすことが、他の祝祭日を一人で過ごすことより、話題にされがちなのは、実はそういうことなのかな。わたしは一人で過ごすクリスマスを寂しいと思ったことはなかったのに、なんだか寂しくなってしまいそう。

 終章 荒廃国からの脱出。

 「私たちのまわりで、何かがわたしたちに向かって応答することをやめています。私たちがその何かに対して「適切な問いかけ」をおこなうのに失敗しているからです。~話しかけ方、問いかけ方がまずいために、その相手は深い沈黙に入ったまま、応答を送り返してこないのです。」「その「何か」の一つが、自然であることは間違いありません。」

 科学と技術によるコルヌコピアの発見。科学知も技術知も、自然のなかを、無理に開かせ、あばき、引き出す。それは贈与的な問いかけではない。

 「~人間のおこなう行為としての「経済」の現象が、交換の原理を中心に組織されているのではなく、贈与と純粋贈与というほかの二つの原理としっかり結びあった、全体性をもった運動として描かれなければならない~」

 資本主義の問題点は、三つの原理がアンバランスであること、交換の原理が突出していること、なのですね。

 羊飼いや農夫。「これらの職業でなによりも大切なことは、羊の頭数を数えたり、計算を間違えないという能力ではなく、羊や人間や穀物に対して、信頼と愛と思いやりをもってつきあうことのできる能力でした。そうでないと「経済」は暴走をはじめてしまう恐れがあるからです。」

 

 対称的な肯定的なコミュニケーションを取り戻さなければならない。人と人のあいだに、人と自然とのあいだに、人と世界のあいだに。

 つまり、世界に「愛」を取り戻さなければならない。

 今、そのために必要なのは、「経済」に「愛」を取り戻すこと。

 経済は、愛を失ったから、おかしくなった。

 経済は、かつてそうであったように、もともとそうであったように、愛と一つであれば、健全に、生き続ける、はず。

 ただ、愛とは。消えやすく、はかないもの。非合理性不確定性不安定性をもつもの。

 近代が、非合理性の領域を根絶しようとしたことは、間違いだった。

 わたしたちは、消えやすいはかないものを、再び受け入れる勇気と強さを持たなければならない。

 ーと、この本を読んで、思いました。これが、わたしの、読解力の、限界。

 感傷的かな。

 見当違い・的外れ、だったら、申し訳ないな…。

 やはりわたしは、経済が、苦手! 

 なのに、最後まで離脱させず、こんなわたしに経済の仕組みを教えてくれた、この本、ありがとう!

   (2016年11月10日 第13刷発行)

 

講談社選書メチエ「熊から王へ  カイエ・ソバージュⅡ」

著・中沢新一

 題名。初めて見たとき、「?」と思った。だけどこの本を読み終えると、腑に落ちる。

 

 「国家」という段階が始まる前の、人間と動物が共に生きる光景が、心に残った。

 結婚するけれどずっと一緒にはいられない、愛しているけど殺し合う、尊敬して畏れる、大切に育てて殺す。

 なんて美しいのだろう。なんて悲しいだろう。だけど、健やかだ、まだ。

 これが「文化」だった。偽善も感傷も熱狂も、ない。

  

 2001年9月11日にニューヨークであの大事件がおこった、翌々週に、この本の序章に当たる部分の講義がおこなわれたそうだ。だから、二十一世紀の世界・現代社会について、述べられている。読んでいて改めて、発見した言葉、「対称性」。

 これまであまり使ったことはなかった。だけどカイエ・ソバージュⅠで、意識するようになり、なじんできた言葉。「平等」「公平」は、よく見聞きする。だけど、「平等・不平等」より「対称・非対称」だ。「平等を目指す」ではなく「対称性を取り戻す」という表現のほうが、適切ではないか。問題は「経済の格差」ではなく「世界の非対称性」なのだ、と思った。

 

 二冊目のカイエ・ソバージュの話題は、「国家」の誕生。

 わたしは歴史が好き。古代において国家が生まれていく過程は、いくつか見てきた。

 ただそういえば、わたしがその場面で注目してきたのは、人々が「国家」というものを必要とした、地理的条件や政治的情勢といった外的要因に過ぎなかったのかも、とは、思った。

 だけど。国家の誕生って、気が昂る場面なのよね、国家が成立すると、人間の統治組織が複雑になり、政権抗争が熾烈になり、面白いの!-なんて、思っていた、わたし。

 わたしは、人間の歴史の、この大きな転換点における、人間による自然破壊の始まりという側面は、あんまり見ていなかったみたい…。

 序章。動物たちは「自然」状態を生きている。そのおかげで動物たちは「自然の力」の秘密を握っている。「この世界の真の権力を握っているのは、むしろ動物のほうなのです。」

 「人間はそこで神話や儀礼をとおして、つまりは「最古の哲学」の思考様式をとおして、動物との間に失われた絆を取り戻し、「自然の力」の秘密に触れようとしていました。」

 ところが国家なるものが発生すると同時に、「自然」との対称的な関係のもとで意味を持つものであった「文化」が、対称性のバランスを失った「文明」に姿を変えた。そして「野蛮」が意識されるようになった。

 挿入されている、宮沢賢治の『氷河鼠の毛皮』。神話的思考が現われている作品。初めて読んだ。すてきな作品。だけど驚いた。ベーリング行の列車のなか、乗り込んできた白熊たちが、毛皮を着た大富豪を、襲おうとし、青年が制止する。まるで、現代の問題のテキストのよう!

 第一章から第七章までの部分で、著者のかたは「対称性の知性」を、丁寧に見せてくれた。

 具体的に教えてくれた。かつて人間が、世界の対称性を実現するためにおこなっていた、デリケートで細心な調整の、数々を。それは神話、儀礼。そして、複数のリーダー。

 第一章。トンプソン・インディアンの神話。若い狩人は雌山羊と結婚した。多くの雌山羊とつがった。雌山羊は忠告する。雌山羊はあなたの妻だから、子山羊はあなたの子だから、殺さないで。自然環境保全を教える論理として、説得力があると思います。

 第二章。カナダのアタパスカン族の神話。熊と結婚した女の話。わたしの兄弟を殺さないで。あなたが殺されて。わたしを愛しているなら。戦わないで。わかった。私も戦いたくなどない。おまえはもう二度と私に会わないだろう。ラブストーリーとして読むと、切ない!切な過ぎる!

 カイエ・ソバージュⅠで、民話はハッピーエンド、神話は違うと読んだけれど、本当にそうなのだと実感した。人間の心に、教訓を掟を、刻み込み、現実を教えて、終わるのだ。

 第三章。熊送りの儀礼。熊の亡骸を、丁寧に扱い、細心の注意をこめて解体する。なぜなら、贈り物だから。熊のからだは、熊から人間への、贈り物。

 狩猟中の狩人のとるべき行動。だましうちは駄目、眠ったままの熊を殺すのも厳禁、心にやましいところのない武器で。

 大脳のなかに大きな変化が起こり、現生人類が生まれた。流動的知性により象徴的思考が動き出し、そこから、神話が、詩が、音楽が、「人間的な心」が生まれた。そして現生人類は、長い間、自然・動物と、共生していた。自然・動物との「対称性」を、維持していた。

 自分たちが勝者・強者であると考えなかった。自分たちの技術力の優位を否定した。彼らも、その社会も、まったく、「野蛮」ではない…。

 第四章 海岸の決闘。神話が、予言していた。

 サハリン島に住むウルチの人々が伝える神話。対称性の世界に危険を導き入れたのは、あまりによく切れる鋭利な剣。鉄の剣は高度な技術の象徴。人間とカレイとの間に生まれた子供と、シャチと、剣と、熊の、お話、その結末は、自爆的な最期。

 悲劇の結末。犠牲を払っても、非対称を除去することはできない…。

 このお話は、この予言は、人々の、警告? 諦念ならば悲しい。祈りならば切ない。

 「神話的思考は一万数千年の長きにわたって、この世界にデリケートな対称性の関係を維持していくための、思想の武器として働き続けてきたのですが、いかんせんそれはあまりに心優しい武器だったので、いったん登場した非道をおさえる力がないことに、この人々は気づいていたのです。」

 妖しいほどに鋭利な刀、それは日本から輸入された日本刀らしい。日本刀がこの地域の狩りに、大きな変化をつくりだしていたとは…。日本人として、日本刀の美しさと切れ味は、誇らしい。だけど、実用品であり武器であり、多くの命を奪ってきたという歴史は、忘れてはいけない…。

 第五章。神話的思考をもつ対称性社会のリーダー、首長。首長は、後に出現する「王」とは、役割が、まったく違っていた。

 首長は、シャーマンとも、違う。首長は、将軍とも、違う。

 首長は、王になってはならなかった。

 アパッチ族の、ジェロニモ。天才的軍事指導者、メキシコ軍守備隊を殲滅、大勝利。ジェロニモは「王」になろうとした。その考えを、アパッチ諸族は即座に拒否した。だけどもし、このとき、「王」が生まれていたら? ネイティブ・アメリカンの歴史は変わったかもしれない、だけど彼らも彼らの社会も、変わってしまっただろう。「if」の歴史も、幸せではない、だけどわたしは、見てみたかったな…。

 第六章と第七章、環太平洋の神話学。太平洋を取り巻く、モンゴロイドの、環。日本の東北地方から、東シベリア地帯へ、そして北米大陸の西までの、繋がり。「東北」という概念を拡大させる。太平洋を隔てた、広い領域としての、「東北」。

 なぜ「東北」のお話を? それは、この地帯に住んでいた人々は、国家と非国家の臨界点にとどまり続けたから。国家を形成する道を、なかば意識的に拒否してきたから。

 北米大陸北西海岸インディアン、クワキウトゥル族の社会。冬の祭りから見える、倫理。「~夏の間だけは、人間が動物を殺して食べる。しかし、冬の季節には、この関係は逆転して、今度は動物(自然)によって人間は食べられなければならない。」、対称性社会の倫理。

 北西海岸インディアンの場合も、日本列島の縄文社会の場合にも。これらの社会は、国家がいつ生まれてもおかしくないような条件を備えていながら、自分の内部からはそれを作り出さなかった。「国家を持たない社会の臨界形態」。

 以前、日本の古代について読んだとき、縄文時代の日本列島の自然の豊かさに、驚いた。自然の豊かな恵みによって暮らしている縄文時代の日本人の姿に、胸を打たれた。ただ、中国の歴史と比べて「中国ではこの時代もうすでに…」とも、思った。だけど、日本の縄文社会が対称性社会の一つだったと理解した今、いつまでもいつまでも、縄文時代が続いていても、よかったと思う。縄文文化が一万年以上続いたこと、誇らしいよ…。

 それにしても、古代日本と関わる外国と言えば、朝鮮半島や中国だった。東の方面しか、見ていなかった。はるか西、太平洋の向こう側の、モンゴロイドとしての繋がりなんて、忘れていたなあ。

 東北の思想とモンゴロイドの哲学を知る。神話的思考による対称的社会には、リーダーが複数いた。

 それは、「首長」と「人食い」たち。

 「首長」は世俗的な時間のリーダー。

 「人食い」とは、冬の祭りに現われる、人を食べる、人を超えたもの。

 「人食い」たちとは、戦士のリーダー、秘密結社のリーダー、シャーマン。

 「人食い」のように、人間の理性の限界を踏み超えた領域で活動するものたち。

 新石器社会では、首長と、三人のリーダーを峻別していた。これこそが、対称性社会の、最大の知恵だった。

 だけど、首長と「人食い」たちが合体したとき、「王」が生まれた。

 今はもう失われた社会が名残惜しい、だけど、読み進めて、そして。

 第八章 「人食い」としての王ークニの発生。

 王の出現。臨界に達していた新石器社会のどこかで。

 熊=人食い=超越=権力=特定の人間(王)。

 「王権」とは、人間社会の内部に取り込まれた自然権力。

 王が発生すると、対称性社会を支えていた倫理の構造が崩壊する。

「~個人は、そういう具体的な人間関係のつくる社会よりも大きな、社会を超越する権力(これをクニと呼びましょう)のもとで個体性を失って、クニに所属する民に変化していきます。」

「王は社会の中に常駐している「人食い」です。この新しいタイプの「人食い」に食べられた人は、自分では理解することも制御することもできない力によって呑み込まれ、クニの一員へと変身します。」「~この新しいタイプの「人食い」は、いったんクニの成員となった人間を、けっして自分の外に吐き出そうとはしないのです。」

 東西問わず、古代の歴史について読んでいるとき、強力な王が現われると楽しくて、複数の集団が一つにまとまっていく過程が、面白くて。どきどきわくわくしていた、国家の誕生という場面。だけど、この本で見ると…。

 王とクニの発生の内的メカニズムの探求。新鮮な角度だった。

 だけどこの角度からだと、石器時代以降の人間の歴史が、なんだかすべて、悲しく見えてしまう…。それが、人類の真実? 文明の現実?

 「国家」の誕生による、代償。それを、いつまでも人間が払い続けること、人間がその報いを受け続けることは、自業自得。けれど、自然が動物が、地球が、巻き込まれている。現代社会のすべての問題の、究極的な根源は、もしかして、まさか、これ? ここまで、さかのぼる? ここから、始まっていた?

 わたしの手には負えない~、わたしの頭にも無理~。重苦しい気持ちになっていた。だけど。

 終章 「野生の思考」としての仏教。希望を、未来を、感じることができた。

「国家というものが異常な発達をとげようとしていたときに、ふたたび権力に抗するさまざまな原理を立てようという人々があらわれたのです。そうした人々の宗教思想を見ていると、私たちはそこに、「文化」を権力に抗する原理としてとらえようとした対称性社会の人々の思想との、不思議な共鳴を聞き取ることができるように感じます。」

 宗教を「国家とそれが発生させる野蛮を乗り越えようとする思想」だと、思ったことはなかった。だけどそうか、宗教は、国家の抑止力でもあったのか。

 洗練された「野生の思考」。熊は菩薩であったのではないか。後期旧石器時代の、熊とともに生きていた現生人類の心は、すでに仏教を知っていたのかもしれない。

「ほかの大宗教が、新石器的思考を否定する思考の上にかたちづくられているのに対して、仏教はまったく反対の方向に向かっているように見えます。」

 そして、ほっとさせてくれた、最後のくだり。補論 熊の主題をめぐる変奏曲。まずこの副題が、すてき。すてきな構成だった。配慮かな。

 熊神話の環。神話が昔話へ。「熊の王」が「鮭の王」へ。神話が歴史へ。

 シベリア地方と、南北両アメリカ大陸と、日本の東北の、繋がり。

 「神話的思考」が、今のわたしたちと、はるかな旧石器時代の人々との、繋がりの、形無き証拠?

 わたしたちの脳のなかに、遺産・遺跡があると、考えたら、すてき。

 

 二冊目だからでしょうか、いよいよ、難しく重く、なってきました。なんとか読むことはできるけれど、こんなふうに感想を書くことが、難しい。わたしの理解、解釈、言葉、表現、要約が、大きく外れていなければよいのですが…。

 わたしが一番好きな動物は狼。わたしは石器時代に興味がなかった。だけど、熊、そして石器時代、好きになった。好きなものが増えたのは、楽しいことだ。

    (2018年11月26日 第16刷発行)

 

講談社選書メチエ「人類最古の哲学  カイエ・ソバージュⅠ」

著・中沢新一

 題名に、「哲学」という言葉。

 そして、「比較宗教論」の名前でおこなわれた講義の記録であるという、冒頭での説明。

 少し前なら「わたしには無理!」と思い、読まなかっただろう。

 ただ、最近、知った。哲学について宗教についての、本。一般人向けに書かれたものは、決して難解ではない。わたしにも、読むことができて、面白いと感じられるものが、あるのだと。

 そして、人類学者、思想家と紹介されている、この著者のかたの、別の本を読み、感動した経験があった。

 だから、書店で、棚に並んでいる姿を見つけてから、買おうかどうか、ずっと迷っていたシリーズ、全五冊。ちなみに一冊だけ買ってみるという選択は、わたしの性格上、ないのであった。

 迷っていた理由は、哲学や宗教についての話は、経験上、読んでいくと、自分自身の内面を覗き込むことになると、わかってきたから。

 きっと面白いだろう、惹きつけられる、だからこそ、痛くなる、と思い、読むのを、ためらっていた。

 それがなぜか、その日そのとき、そんなつもりで行ったのではなかったのに、書店で、「読もう!」という意欲が、突然沸いてきてしまって、全五冊、購入。

 語り口は、易しい。だから、さらさら読み進められる気もしたのだけど。

 この本を読み、「哲学」とは、一部の人間のための、限られた人間による、特権的で閉鎖的な分野ではないのだと、実感することができた。

 だって、石器時代の人間も、「哲学」してたんだから!

 いえ、「哲学」を始めたのは、石器時代の人間なんだから!

 わたしたちの脳は、石器時代の人々の脳と、それほど変わっていないんですって。

  

 神話。それは、非合理的で非科学的な、幼稚なファンタジー

 神話を作った石器時代の人間。彼らは、非合理的で非科学的で非論理的だ。

 そう思っていた。誤解していた。いいえ、わたしは、知らなかったのだ。

 神話は人間が最初に考え出した、最古の哲学であること。国家というものを持たなかった人々の、論理の体系が、神話に潜んでいること。

 まず、自分のこれまでの、先入観を捨て、誤解を修正し、新しい認識を受け入れた。

 そうすると、「神話」というこの本の主題が、とても新鮮で、魅力的に見えてきた。

 みだりな気持ちで神話は聞いてはいけないという考え。なぜ? 「神話は人間の精神の奥深いところで働いている無意識の論理過程が、外からの影響力から自由になった状態で、~自分を展開しようとしているものですから、そんなデリケートなものを不用意に世俗の意識にさらしてはならない、という考えがあったからだと思います。」

 神話のつつましい願い。イヌイットたちの「はじまりのとき、動物と人間のあいだには、ちがいがなかった。」というお話。そして、人間と動物たちはもともとは兄弟であり親子であり、結婚もする相手同士だった、という話に、なんだか泣きたくなった。「近現代の哲学には、こういう謙虚さをもはやみいだすことが難しくなっています。」

 -と、神妙で殊勝な心持ちで、読み進めていた。だけど。

 挿入され、紹介されている、インドネシアベネズエラ、テナテハラ族の神話。

 面白いわ!

 神話と言えば、子どものころ、子ども向けの「古事記」や「ギリシャ神話」を読んだことがあったっけ、というくらいの関係だった。大人になってからは、読んでいない。見くびっていたから。

 だけど、その、一見すると、素朴だけどおかしな物語、今、改めて読むと、面白い。

 そしてさらに、その奥に秘められている、一貫性、複雑な論理、深い意味まで、読むことができるようになれば、さらに、面白くなるのだろう。

 自分の心を守るため、警戒して、読み始めたのだけど、リラックスして、序章を読み終えていました。

 第一章 人類的分布をする神話の謎。

 「結婚したがらない娘」という神話タイプ。アメリカ・インディアンの神話では、こういう少女は夫を探して、動物の世界にいってしまうって。ときには星や太陽や月と結婚するって。すてき…。

 第二章 神話論理の好物。それは例えば、豆、そして燕。豆は男性と女性を、生と死を、媒介する。燕は、冬と春、湿気と乾燥を、仲介する。両義的な性格を持つものが、ふたつの項を仲介するから、神話は世界を思考することができる。

 「両義性を持った仲介者」という存在を知るだけでも、神話を読む目が変わる。

 第三章 神話としてのシンデレラ。ここからは、シンデレラの物語についての話である。よく知られている、わたしもよく知る、物語。子どものころ絵本で読んだし、ディズニーのアニメ映画も見た。

 なぜ、シンデレラ? それは、この物語は、美しい「残骸」だから。神話的思考の、残骸。この章からは、シンデレラ物語を分析する、長い旅。フランスのペロー童話集から始まって、なんと、ユーラシア大陸の闇の歴史へ、辿り着くのですよ。

 ペローの「サンドリヨン」とグリム兄弟の「灰かぶり少女」は、どちらも民話、どちらもハッピーエンド。民話と神話は、違うのですって。神話では、破綻した状態のほうが、永続するのですって…。「~民話は「幸福な結婚」で、論理を停止させようとします。」

 ポルトガル民話版シンデレラに現われた水界の領域、それは人間の世界の外、つまり、死の領域。えっ、死?

 世界最古のシンデレラ物語は、九世紀の中国で記録されたもの。そこに見える、自然とのあいだの倫理を守った生き方は、良いなあ。ただ、すでに見える経済的欲望は、悲しい。「シンデレラの物語は人類的な古さを持つと同時に、資本主義の精神とも結びつきやすい、不思議な性格を持っています。」

 第七章 片方の靴の謎。ここが、シンデレラ物語をさかのぼっていく旅の、終わり。シンデレラの、始原。

 ギリシャ神話・ギリシャ悲劇に登場する、父親を殺し母親と結婚したオイディプスと、シンデレラの、関わり・繋がりが、読み解かれていく。「オイディプス」という名前には、「跛行する」「足を欠損している」という意味がある。シンデレラは片方の靴を脱ぎ落とした。そうして、いよいよ、シンデレラの原型が、現われる。

 オイディプスも、シンデレラも、生と死のふたつの領域を仲介する存在。

 ほんとうは、シンデレラがダンスを躍っていたのは、死者の国。

 シンデレラが脱ぎ捨てた片方の靴、それは、死者の王国の刻印だったのだ。

 彼女が靴を脱ぎ落とすというエピソードには、「~シンデレラがシャーマンであった時代の遠い記憶が、うっすらと映し出されているのです。」

 シャーマンとは、死者の領域に入っていくことのできる能力を持った宗教者。

 終章 神話と現実。わたしが読みたかったものだと思った。

 一時期アニメと漫画に夢中になっていたわたしが、今、アニメと漫画に対して、なんとなく感じていたこと、そして、今の時代に対して、漠然と思っていたことが、高度に知的に洗練された文章として、明確に表現されていると思った。

 わたしも同じことを思っていたのよ、ではないのです、似たようなこと、いいえ、ほんの少し、似て、いなくもなかった、かも? 近かったと、言えなくも、ないかも、しれないかも、って感じに過ぎない、ふわふわもやもやしたもので、わたしにはそれを、言語化し論理化する知力はなく…。

 つまり、とにかく、この章、共感しました。

 「~私たちの近代化は不徹底だったわけですが、この不徹底のおかげで、神話的思考が近代の思考によって絶滅させられることのないユニークな現代文明の一形態を作ってきたのです。」「しかし、その神話的思考はいまやただ「様式だけ」になって、テクノロジー文明と融合することによって、逆に由々しい毒を流しはじめています。」

 「合理化は、過剰に豊かな現実から情報量の排除をおこなって、人間の思考と行動でコントロールできる領域を囲い込むことを意味します。」

 神話と宗教の、違い。冒頭でも述べられていた。「神話はのちの宗教とはちがって、~現実世界へ強烈な関心とその世界を知的に理解したいという欲求を、失うことがない。」「現実の世界を犠牲にしてまで、観念や幻想の世界に没頭しようという非現実性に陥ることが、神話にはけっしてなかったのである。」

 神話は警告する。神話は現実と幻想のあいだにたって、二つを仲介しようとしている。そのうえで、幻想に埋没することの危険を知っている。神話は、現実との対応を絶対に失わないようにしている。

  

 旧石器人類の思考から一神教の成り立ちまで、「超越的」なものについての、講義であるという、この本。「野放図な思考の散策」という意味をこめた題名「カイエ・ソバージュ」。

 文章は口語調だから、読みやすい。だけど内容を理解するのに、エネルギーが必要。頭のなかの、わたしは普段あまり使わない領域を、使っているみたい。面白いけど、なかなか疲れます。一冊づつ、ゆっくり、読もう。

 シリーズものは、全部そろっていないと、一冊でも欠けていると、居ても立っても居られなくなる。だけど、全巻、手元に置いてさえいれば、全巻、読んでなくても、気にならないわたしなのであった。

  (2002年1月10日 第1刷発行  2018年2月19日第23刷発行)