たの葉の物思い 

本を読んで、たの葉が思ったことです、ときどき、それ以外

岩波新書「武士の日本史」

著・高橋昌明

 硬派な本であるのに、知性より感性が刺激されてしまった。

 わたしが「武士」に惹かれる理由は、わたしの嗜好・性癖? に関わっているみたい。

 ただ。二次元上のキャラクターなどではなく。

 かつて実際に存在した、生身の人間。一つの人生。一つの生命。

 その事実を、前提として、忘れてはいけないと、改めて、自分を戒めた。

 戒めた、けど、やはり、感情が先立ってしまう主題…。

 

序 。

 「武士の発生から近代にも残る武士意識まで、つまり武士にかかわる全歴史を、それぞれの時代の特色を明らかにしながら扱いたい、と考えている。」、何気なく読んでしまった、「近代にも残る」…。

 武士の発生についての、現代の「常識」。儀式や享楽に明け暮れ、無為と退廃のなかで未来を見失った都の貴族を、地方で農業経営や開発にいそしみながら、たくましく成長してきた新興勢力の武士が圧倒し、やがて貴族に代わって、鎌倉時代という新しい武家の世を開いたとする見方。

 このような単線的で機械的な発展史観は、中世史の学会では、過去のものとなった。が、一般にはなおこの理解が日本人の常識である。

 ただ。昔、学校の授業でどんなふうに習ったかは、忘れてしまったけれど。わたしが武士を好きになったのは、「正しい働きもの」「正義の味方」「堅実で善良」だ、なんて、思ったからでは、なかった。魅力を感じたのは、そういうところではなかった。

 中世の武士。「雅び」と「野蛮」、「都」と「鄙」、「清」と「穢」が、共存し、融合し、一つである、姿。

 美しい! 

 と、思ったから。

 もともと、雅びな王朝文化にうっとりしていた。ただ、平安時代の王朝の歴史に、垣間見え、やがて明確に現われる、血・暴力にも、どきどきするようになって…。

 武士。汚れ仕事を引き受ける、至高の血統の末裔。すてき!って、思ったことが、その存在を意識した最初のような気がする。

 そして。中世の天皇・公家・朝廷、自らの手は血で汚さない、権力者たち。さすが、やはり、すてき! って思ったものよ。

 第一章 武士とはなんだろうか ー発生史的に。

 武士が発生した時代、古代・中世。武士はこの時代、芸能人だった。

 芸能は、遊芸・芸事を意味するだけでなく、広く学問・技芸・技術などの才能能力をさしていた。

 家業としての芸能。「技術・技能は知識の一種であるが、それが家業・家職として、特権的・運命的・因襲的に特定のイエに固着するのは、前近代の技術が基本的には、人間の身体と一体化した知識であり、経験的なものだからである。」

 「家業」というルールとシステムが成立したことが、日本の血縁社会を、強固なものにしたのかなと思ったり。

 「近代社会では、知識が生身の人間から分離独立し(客観的知識)、学校・教師やマニュアル(教科書)を介し、集団的かつ系統的に教授される。」

 「前近代社会では、これと違って人から人に、身体や五感を通し、即物的・非系統的・没我的に伝授習得された。」

 「家業」というルールとシステムを失ったことも、近代以降の日本の、血縁共同体を、家族を、動揺させた一因だったのかなと思ったり。

 かくして武士は、武という芸(技術)によって自他を区別する社会的存在であるだけでなく、武芸を家業とする特定の家柄の出身者でなければならなかった。

 「単に個人的に武芸に堪能なだけでは、まだ武士ではない。武士であるためには「ツワモノの家」の生まれであり、とくに望ましいのはその「家を継ぎたるツワモノ」であることだった~。」、武士も、能力だけでは駄目だった。日本の人びとが昔から血縁という観念が好きなのは、かなり昔から万世一系を存在の価値・正統性・根拠としていた天皇家の影響もあるのかなと思ったり。

 古代・中世の武士を「弓馬の士」、武芸を「弓馬の芸」といった。武士は騎乗の士。「そもそも日本では、乗馬は誰にでも許されていたわけではなかった。」

 律令制では、官位を持つ役人の権利であり義務。牛車に乗るからといって、上流貴族から乗馬習慣が失われることはなかった。行幸の時に騎馬で従うのは、彼らの義務だったから。

 最高の貴族・藤原道長も乗馬の名手。「名高いなんとかといった御馬、たいへん疳の強い荒馬」をぴたりと乗りこなした。って、すてき! ツワモノをコントロールしていた平安貴族の男性が、単なる文弱であるわけがない。

 近現代社会にあっては、紛争の解決や社会の秩序維持に必要な実力行使(物理的強制力、端的にいえば暴力)は、普通国家に集中独占されている。ところが前近代社会では、発生する各種紛争の解決手段として、自力救済(自己もしくは自己の所属集団の権利が侵害された場合に、法の定める手続きによらないで、実力により権利を回復・実現すること)が広くおこなわれていた。

 日頃武をたしなみ、紛争解決を武力に訴えるというだけなら、王朝貴族から在地の民まで、大なり小なりその事実があった。

 「筆者にいわせれば武士論の核心は、誰がいかなる状況で、何を目的に、どのような人びと(家筋)に公然と武器の携帯と武力行使の権をゆだね、社会もまたそれを容認したかである。」

 「この視点が欠落した武士論は、武士論の条件を満たしていない。」

 日常的にくり返される自力救済が、度を越すと、秩序は乱れ、社会は危機に、人びとは不安に陥る。国家は、社会全体が危機に陥らないよう、それらの暴力や偏向、私利の追求を、普遍的利益(公共性)の立場から、なんらかの程度制御することを求められる。

 「~、人の殺傷をともなう物理的な実力行使が、やむない措置もしくは称賛に価する勇敢な行為だと認定されるためには、他からの脅威を取り除き、社会全体の安定や秩序維持に資するといった「大義名分」が必要である。」

 「武士はまさにその任にあたるとされたがゆえに、武装を公認され、武力発動と人の殺傷が容認されているのである。」

 「武士とは国家・社会の秩序維持を目的としたものだから、彼の身分と武力発動の正しさを認定する者は、当然、社会全体の安定・安全に責任を負うべき人や機関である。」「前近代にあっては、その特別な人とは、国家・社会を理念的に代表する王(天皇)である。」

 「武士を武士たらしめるのが王権なら、その論理的な帰結として、武士は地方農村ではなく、まず王権の周辺や朝廷のお膝元、すなわち都で誕生する。」

 軍事貴族。ああ、わたしが好きな、天皇の血統を汲む、摂関家に血統がつながる、武士たち。源・平両氏、秀郷流藤原氏は、階層的には五位が中心(稀に四位)であるので、彼らを学問的には軍事貴族と呼ぶ。「彼らも貴族の一員であることに注意を喚起し、武士と貴族を対立的にとらえる常識に一石を投じることを意図しているからである。」

 弓矢重視は近衛府の伝統。流鏑馬など馬場での馬上の射芸も貴族社会に発生源がある。「武」を娯楽として観賞する貴族、「武」が娯楽の一種であった時代、古き良き時代…。

 貴族社会で生まれた武具。鎧は王朝貴族文化の一部として製作されたとみるのが妥当であろう。

 威毛の色彩や色模様は、貴族社会の男女が着する装束の色や桂の重ね着した時の配色の妙を反映したものと考えられている。絵がわの周縁の縫い付け。用いられる絹の縒糸の色の組み合わせには、王朝貴族の服飾を彩った色感覚が反映している。

 鎧はまさに平安期工芸技術の粋を集めたもの。芸術としての「武」!素晴らしい!

 「武士の武器・武具が貴族社会の産物であるのは、武士が天皇の周辺や貴族社会のなかから生まれたという発生の経緯のせいばかりでなく、武士が天皇や朝廷の権力を「代表的に具現」していたからだ、と考えられる。」

 「代表的具現」、目にみえぬ存在を、現存するものによって公然とみえるようにし、目の前に現われさせること。

 だからあんなに美しいのね! この時代の日本の人びとよ、実用性機能性だけでなく、美しさも追求してくれてありがとう、実用性機能性に優れ、なおかつ美しいとは素晴らしい、王権と結びついていて、よかった! 戦う芸術作品、血を浴びる美術品、良い…。

 国家の次元が期待する武士の役割があった。だが、彼らも自分の権利(名誉や自尊心も含む)を守るという点にかんしては、自力救済の主体になる。武芸の専従者の実力行使は、ほかの身分の人びとより一層苛烈で危険度が大きい。武士の暴力団的性格。

 文官貴族の家系で、武を誇る人びと。「思えば清少納言和泉式部も、危ない男たちに取り巻かれていたものよ、と感心する。」、わたしは平安時代と平安貴族の、なかなか物騒な実態を知って、ますます彼らとこの時代が好きになったものよ。地獄を知ることで、天国の崇高さが引き立つ、という感じ…。

 「平安期以来、人びとはまず一身の安穏を求めたのであり、武勇を求めたのではない。」

 「少なくとも安穏を実現・保障するための武勇だから許容したのであり、武勇のための武勇や武勇の独り歩きを嫌った。」

 第二章 中世の武士と近世の武士。

 現在の日本史学は、院政期から中世の時代に入ったと認識している。中世社会。武士の存在感が増していく時代。好きな時代だから、興奮する。

 平安末期。「~忠盛は貴族社会にふさわしい洗練と経済的貢献によって、院の眼鏡にかなった。」、「洗練」!。「清盛は、~勢力の対立を巧みに遊泳。」、「巧みに遊泳」! 何気ないなんでもない描写に興奮してしまう、伊勢平氏好き、平家好きのわたし。

 治承・寿永の内乱。「この内乱は、中央にたいする地方の積年の不満が爆発したものであり、源平の覇権争いに矮小化されてはならない。」「そのため学問の世界では、年号を取って治承・寿永の内乱と呼ぶ。」、平家って、時代のスケープゴート…?

 鎌倉幕府の成立時期についてさまざまな説が出るのは、各研究者が幕府の本質をいかなるものと考えているかの違いによる。

 とくに興味がなかったのに、京都大番役鎌倉幕府にあっては、恒例の役よりも臨時の役の方が優先され、臨時の役中もっとも重んぜられたのが、京都大番役。「御家人にとって主人である鎌倉殿を護る役より、京都の天皇を護る役の方が重いというある種奇妙な事実は、幕府が国家的な軍事・警察を職務とする権力であることを、端的に物語っている。」「~、上洛しこの大番の役を勤めたという実績こそ、御家人御家人身分を保持するための最重要な要件であり、またそれまで武士とはみなされていなかった武に堪能な存在が、武士と認定される最高の機会、かつ晴れがましい舞台でもあった。」

 幕府とは自明の存在ではない。武家権力は、近代歴史学が誕生した頃、征夷大将軍の共通性で一括りにされた。

 平家の政権と鎌倉幕府には意外に多くの共通点がある。平家は幕府ではないのか? 研究者でもなんでもありませんが、わたしも、平家も幕府と思いたい。鎌倉幕府に先立つ六波羅幕府。良い…。

 近衛府と深い関係を持つ「征夷大将軍」という官職を選んだ、朝廷・王朝側の、思惑・意図。なんとか自分たちの制御の効く範囲にとどめておきたいと…。官職名くらいでは、無理でしたね…。

 武家政権としての真価を疑われてきた平家政権。その中途半端さや未熟さを形容するのに多用されているのが、「貴族的」という言葉。そこが、武士でもあり貴族でもあるところが、良いのに! 人を傷つけ殺す手で、笛を弾き歌を詠むなんて、すてき! その魅力を、未熟とか中途半端とか形容されてしまうのが、寂しい!

 武家としての平家のマイナス評価の最大の発信源は、古典文学『平家物語』。頼朝側、勝利者の側に立った合戦伝承の採用という成立途上の事情が、東国武者の勇猛ぶりを、実際以上に誇張する結果になっているのではないだろうか。

 平家物語、という題名なのに、主役なのに。平家の武者たちがとくに弱かったわけじゃないのに、彼らも頑張ったのに…。平家の一番の敵は、院でも源氏でも摂関でもなく、時代だったか…。

 江戸幕府が頼朝の権力をみずからの源流とみなしたことにより、初めて貴族政権(貴族的な平家も含めて)を圧倒する原動力となった東国武士こそ、本来の武士だという意識が形成されていく。源頼朝に私淑した徳川家康のせいでもあったか!

 江戸幕府史観の最高峰、新井白石の『読史余論(公武治乱考)』。同書が近代歴史学に与えた影響は極めて大きい。最終的に、新井白石のせいでしょうか? 現代まで続く、平家の気の毒な感じは、マイナス評価が常識として存在し続けている原因は。

 室町時代も大好き、だけど戦国時代以降には興味がない。歴史の流れにおける朝廷の存在感が小さくなるから。王朝文化から、遠くなったから。「雅び」が、消えていくから。すべてが大きく、変わっていく。

 貴族性から遠くなり、皇統とは縁がなくなった、成り上がりものの田舎武士は、好みじゃないのよと思うわたしは、貧しい一庶民です。なぜか、こういう好み。

 単純に、ビジュアルでも。わたしは、中世の武具と中世武士の正装が、一番美しいと思う…。

 第三章 武器と戦闘。

 戦闘の様相も、中世が好きだと自覚した。中世前期の戦闘の様相。武士の表芸は弓馬の芸、馬上の射芸。弓と馬。かっこいいなあ。

 合戦の実態、戦闘の詳細について見ていくと、現実の殺し合いなのだと、命のやりとりなのだと、実感する。背筋がひやりとする。萌える、なんて、軽薄な気分は静まる。

 だけど。追物射。騎乗者が日本独特の舌長鐙を踏ん張って馬上で立ち上がり、逃げる左前方の敵(獲物)に前傾姿勢で矢を放つ弓射術、ああ、かっこいい…。

 在来馬は暴れ馬だといわれる。「たとえ貧弱な馬格でも、過酷な過重になんとか堪えられたのは、この気性の荒さによる。」って、可哀想…。

 悍馬であるのは、もともとの性質に加え、去勢していなかったから。「中国文化を熱心に学んだ日本だが、宦官の制、つまり人間の去勢を取り入れる事実がなかったのは、牧畜文化的発想を、理解できなかったからだ、といわれる。」、だから、馬も。

 殺し、殺されたのは、人間だけではない。馬も。狙われる、殺される。消耗品!

 戦争に馬が使われることがなくなって、嬉しい。戦争におけるこの進歩だけは、全面的に無条件に肯定する。

 戦場や騎兵や馬の世話について、具体的に見ていくと、戦争の大部分は、地味な堅実な行動の積み重ねなのだとよくわかる。

 弓矢のいくさが基本でありながら、近接戦闘が無視できない比重で起こったのはなぜか。武士にとり武功の端的な表現は敵の首を取ることだったから。弓中心の遠戦が基本であった日本の合戦が、白兵戦闘中心にイメージされてきた理由。首を取るためにはいやでも敵と接触せねばならず、首級を取るのは刀でなければならなかったから。なるほど!

 近世。武の後退。泰平の世の、文治政治のなかの、武士たち。ああ、好みではない~。

 江戸前期の悪習。わざと馬の腱を切断する「筋骨切り」。走る能力は落ちるが、乗馬に不得手の武士にも乗りこなせる。馬は、去勢しておらず、気質も荒くて御し難かったから。って、ひどい! いえ、待って。去勢と筋骨切り。どちらが残酷…? どちらも、人間の都合…。でも、やはりわたしは、筋骨切りのほうが…。

 馬に乗れない武士って、いや~!

 演技としての「殺陣」ではなく。実際の斬り合い。安政七年(1860)の、桜田門外の変大老井伊直弼一行が襲われた。

 襲撃の、詳細。現実に起こった乱闘。怖い。井伊直弼が首を斬られたことは知っていたけれど。「事件後、現場の雪の上には、切断された多くの指や耳・鼻の一部が散らばっていた。」、って。深手でのちに死亡した、って。想像すると、痛い。創傷、切り傷、痛い、怖い…。

 この時死んだ藩士の刀が、彦根市彦根城博物館に所蔵されている。著者のかたの、実際の刀を目にしたときの思いが、印象に残った。

 第四章 「武士道」をめぐって ー武士の精神史。

 武士の精神史が、江戸時代と戦国期以前では違いがある。

 「ツワモノの道」。職業身分たる武士が有すべき能力にかんする言葉、武という芸能の修得・実践の道程、あるいはえられた方法・力量(技術)をいう。とくに精神的・倫理的なものは含まれていない。戦闘能力の保持に重点があり、それであって初めて中世的な「道」たりえたのである。わたしが好きなのはこれだわ。

 文治三年(1187)、謀反の嫌疑をかけられた、しかし起請文の提出を拒んだ、畠山重忠。「自分のような勇士が、武威を笠に着て人びとの財宝などを奪い取り、世渡りの術としている虚名が広がるようであれば、それはもっとも恥辱である、謀反を企てようとしているという噂なら、かえって名誉というべきである」、かっこいい!

 中世の、「家礼」型の、自立心が強く、自尊心も強く、御し難い存在である、武士。かっこいい!

 こういう武士たちに慕われたり恐れられたり、こういう武士たちを制御したり制御できなかったりした、中世の武家の棟梁たち。棟梁なのにリーダーなのに。リーダーだからこそ。安穏と座っていることはできなかった、多忙で過酷なその人生の多くに、胸を打たれる。

 戦国時代。「武士は渡りもの」が当たり前の行動原理。名利に生きる、しかし利に傾く。「仏のうそを方便と云い、武士の嘘を武略と云う」「大声でわめけ、嘘をいえ、博打を打て」。ここまで、なりふりかまわなくなってくると、美しくない、好みじゃないわと思ったり。倫理礼節から遠くなり過ぎると引いてしまう、中世の武士がちょうどいい感じ、中世のカオスには惹かれるけど、戦国のカオスには…、って、偉そうなわたしは一体、何様のつもりか…。

 治者としての倫理学平清盛足利尊氏の為政者としての側面には、萌えるのに。徳川将軍家には萌えない、って、ほんと、ナニサマでわがままな好み…。

 「武士道」。清く正しい立派なもの、威圧的で高圧的なものは、苦手、遠慮、敬遠、させて、いただきます。だけど、へえ、「士道」というものがあったのか。「士道」と「武士道」、二つの道、その違い。

 近世は自力救済を禁ずる。「江戸の泰平は、自力救済を極力抑え込むことで実現し、完成する。」

 東アジアの目で、士道論・武士論を、みれば。「~、こうした武士の思想を、東アジアという世界のなかに置いてみれば、どのような歴史理解の展望が開けるか、という問題である。」

 「結論からいえば、中国・韓国の思想史の専門家たちにとって、武士道の異様さはもちろん、儒教にもとづく士道という武士の倫理思想も、非常に不思議で、おそらく理解に苦しむところであろう。」

 なぜか。「儒教は、法や武力のような強制による支配ではなく、礼楽(広義の文)や詩(狭義の文)によって人びとの道徳心を高めながら、社会の秩序と親和を実現するのを理想とする。」「この思想の根本は「力」にたいする徹底的な忌避であろう。」「武や武人は見下げられた。」、「力」の権化である武は、徳の反対物。

 「君子の徳にもとづく治国平天下の肝心な点は、刑と兵を設けて、しかも用いざるところにある。」

 中国では。支配イデオロギーの中心に据えられたのは儒教。中国官僚制を長く特徴づけた、文官優位の原則。儒教的教養が問われ、万人に開かれ、能力によって人材を選抜する、科挙制度。

 国家・社会制度が中国の圧倒的な影響力のもとに置かれた高麗や朝鮮王朝も、文人支配を建前にしていた。

 東アジア世界の周縁にあった日本。古代以来中国大陸や朝鮮半島から、多くのものを学んだ。だが、科挙は採用されなかった。儒教の理解や普及も十分とはいえない。

 「日本の古代中世の社会では、儒教儒学、それも主に博士家という文士のイエの家業の形でしか存在しなかったし、個人と社会を律する強固な規範にはなりえなかった。」

 「だから日本のような文(儒)未確立の社会には、武士や武を明確にマイナス価値と位置づけ、しかも柔軟に体制内にとりこむ試みは現われにくい。」

 武家政権とは、つまり軍事政権、と考えると。この国は長い間軍事政権でした…。

 武士や武を忌避しなかった日本社会は、その後武士が名実ともに治者として君臨する近世社会をむかえる。文治政治への転換。近世半ば以降、儒教が諸学・諸思想と習合しつつではあるが、初めて社会に一定の浸透を見た。

 「~、武の対立物であった儒教が、皮肉にも武士の治者としての自覚をうながす教養体系として機能し始めた。」「その意味で、儒教によって自分を厳しく律する武士の姿は、実像というより、時代の要請が生んだ彼らの努力目標だった。」

 乱暴に極端に、武士を軍人と考えてみると。軍人たちが武力を使わずに社会を治めなければならないのだから、軍人たち、頭が混乱していろいろ考え込むに決まっている。だけど、徳川の平和。一応、軍人が為政者だったのに、平和が続いたのは、すごい。

 切腹平安時代以降、自殺の一方法としておこなわれるようになったが、広まるのは鎌倉末期から南北朝期にかけて。元弘三年(1333)、近江番場で六波羅探題の将士が集団自殺し、続いて鎌倉で得宗高時以下が大量自殺した時の衝撃がきっかけではないかと思われる。ああ、わたし、この史実に、思い入れがある…。

 古式では、腹を切り内臓を引き出した。その事実から、生命の源である内臓を神に供えることにより、その神を祀る共同体にたいする祈願者の偽りのない赤心を示すのが、切腹の本義であり、山の神信仰と狩猟の儀礼に起源を持つという説がある。

 「これによれば、武士の切腹は、武運つたなく死に直面した武士が、弓矢の神と彼の帰属する武士集団への最後の忠誠表明をする、という意味を持っていたことになる。」

 本義と起源を知り、切腹という行為を、もう、恐ろしいとは思わない。ただただ、切なさが、胸に突き刺さる。

 血みどろと血しぶきにばかり、注目してはいけない。「切腹」という言葉、気安く気軽に消費されるとしたら、残念。内臓は、単なる内臓じゃなかった、単なる体の一部じゃなかった。過激なグロテスクなパフォーマンスではない…。

 自分の意志でおこなう切腹とは、恨みつらみの表現、ではないのね。憎しみや呪いの表明では、ないのね。むしろ、愛。究極の愛情表現かもしれない。「最後の忠誠表明」…。誤解しないようにする…。読んでもすぐに忘れてしまう鳥頭だけど、これは、忘れない…。

 鎌倉幕府滅亡時の二つの大量自殺は、得宗にたいする近臣グループの献身と忠誠の心情を、劇的な方法で表さんとしたものであろう。その凄絶さは、得宗専制政治への各方面からの反発・憎悪を感知していた彼らの、前途なき絶望感が噴出したもの、とも解釈できる。愛していた、離れられなかった、憎んでいた。悲しい、切ない、悲しい、歴史…。

 それにしても、最初の武家政権である鎌倉幕府が、これほど壮絶な最期を迎えなければならなかったのは、必然か偶然か、なんの因果だったのか…。

 刑罰としての切腹。近世では、上級武士にたいする特別の死刑法になった。その作法。「本物の短刀を手にしないうちに首を落とすようになったのは、本物を取らせれば、刑に不満だと反抗するおそれがあったからのようだ。」「戦時には本人の自由意志であったものが、平時には命ずることによって、反抗を招きかねない刑罰になったところからくる矛盾である。」

 刑罰としての切腹にはロマンを感じないわ、なんて、残酷で不謹慎で自分勝手な、傍観者としての感想をもっていたら。

 幕末の、刑罰としての切腹。神戸事件、堺事件。藩士の処刑。深く腹を切る十文字腹。政治対立の激化にともなう、斬り合いの激増に、刺激された。本来の凄惨さが際立つようになった。幕末の日本武士の、怨念、情念。ロマンなんて求めてごめんなさい。難しい時代だった、難しい時代があった。わたしが住んでいるこの国の、話…。

 「武士の精神史は、時代による振り幅が大きく、それは中世以前と以後の社会構造や主従制のあり方の変化に最大の原因がある。」

 第五章 近代日本に生まれた「武士」 ー増殖する虚像。

 この章の副題に、ひやりとした。

 この本の題名を見たとき、漠然と、江戸時代までの話だろうと思った。

 「近代に残る~」と序にあったけど、もう武士はいないでしょう?と思った。

 近代にもいた。

 残っていた…。

 とりあえず、まず。

 武士・士族という目線から、明治維新を眺めた。

 そうすると、矛盾が、よく見えるよくわかると、思った。

 「近世は軍制を基礎に、身分や行政組織などの政治体制が形成されていたので、軍制を変える試みは、主従制的に組織された軍団の解体と政治体制の改変につながらざるをえない。」「武の重要性・緊急性を訴える声があがり、軍制改革が実行されるようになったことが、武士身分存立の基盤を脅かすという、予期せぬ結果をうんだのである。」

 「逆にいえば、幕末、西洋文明の優位が明らかになった時点で、幕府が西洋型の軍隊に向かって全面的な軍制改革に踏み切れなかったのは、それが幕府を頂点とする旧体制の否定につながったからである。」

 明治国家は王政復古という形式で成立する。「しかし、近代化は絶対的な要請だったから、復古形式のもとで、旧体制否定の改革が次々おこなわれる結果になった。」

 旧幕臣は「士族」となった。徴兵令と廃刀令。士族の特権は次々廃止されていった。

 「こうした諸特権の廃止は、支配層がほぼ無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的にも稀な事例とされている。」、もちろん、士族の反乱は、明治10年の西南戦争まで続いた。だけど、確かに。

 他の、非西欧諸国の、近代の、長く続いた複雑な内戦に比べると、確かに、ほぼ無抵抗、比較的平和的。なんだか誇らしい、いいえ、待って、誇っていいのかな、誇れるようなことかな…? 難しいかも…。

 明治政権は、実質的には士族の政権であり、旧武士の政権。しかし、そのおこなったことは、武士の社会的特権と剥奪し、経済的特権であった家禄を全廃し、わずかに金禄公債を残すにとどめたことだった。やはり、またまた、矛盾、けど、正しいか…。明治の政治家の男性の多くが個性的なのは、こういう矛盾を突き抜けていたからかなと思ったり。

 日本における古戦史研究の先駆けであり、かつその代表、『日本戦史』全13巻。明治22年(1889)から大正13年(1924)にかけておこなわれた編さん事業の成果。

 聞いたことないわ、わたしなどには縁のない難しい本ね、と思った。だけど、どうやら、後世の末端のささやかな一人に過ぎないわたしも、その影響を受けていた模様。

 そもそも戦闘は変転極まりない動きの連続であるから、これを客観的に記録すること自体が難しい。いわんや同時代史料に将兵の心理状態が記録されていることなど望むべくもない。

 戦史叙述の難しさ。それは、歴史的事実と文学的虚構の接点に立たされた研究の難しさ。

 結局、『日本戦史』は、近代軍隊の目線や基準で戦国戦史を書いたということ。「それは実際には戦国戦史ではありえず、戎衣(甲冑・軍服)や武器のみ古風な、近代野戦からの類推としての架空戦史であろう。」「~、筆者は『日本戦史』を近代軍人の眼による擬古物語と考える。」、「架空」…。「擬古」…。

 「正確で具体性のある戦闘関係の史料がえられなかったため、『日本戦史』が、江戸時代の娯楽本位に書かれた軍記物・軍談などに頼りながら、強引に架空戦史を書いた点は、国民の歴史意識をゆがめる結果になっており、おおいに問題がある。」

 戦史が戦争を誤らせる。「さらに深刻な問題は、近代の軍人による軍の立場からの架空戦史の誕生が、近代の指導的軍人の思考と志向を縛り、史実とかけはなれた「戦訓」をもとに、現実の戦争を構想させ実際に実行する、という愚を犯させたかも知れないことである。」

 近代武士道の登場。軍人勅諭教育勅語などが教えこまれ、国民に忠君愛国、尽忠報国の思想が広がってゆく。その過程で、軍人と武士が同一視された。武士道の捨身や死の覚悟の強調も、国家や天皇のための滅私奉公、戦死の美化として利用されていったのである。

 日露戦争の戦訓は活かされなかった。世界最大の陸軍国ロシアに勝利したという自負と高揚感が災いし、戦争後、典範令(軍律・訓戒をはじめとするいわば軍の教科書)が西欧型から日本型に改定されてゆき、日本軍隊独特のモラルやイデオロギーが体系的に現れ、精神主義があらゆる箇所で強調され、「精神教育」を重視するようになった。

 サーベルから軍刀へ。日本刀に特別な精神的付加価値を求める風潮。日中戦争以後、一層激しくなった。いよいよもってナンセンス。日本刀が実用の域を超えて、呪物崇拝の対象となった。

 「日本の軍人は精神において武士の虜となった。」、端的な表現…。

 近世の武士道は、武士社会内の、しかも一部でのみ通用する、普遍性を持たない思想だった。

 近代の武士道はエリック・ホブスボームらがいう「創られた伝統」だった。

 「全時代を通し、全社会で共有される価値観が存在するというのは、国民国家が創り出した幻想であり、国家支配層やそれに追随するイデオロギー集団がそうあって欲しい、と考える願望以上のものではない。」「結局近世武士道も近代武士道もそのような事例の一つに過ぎないのである。」

 終章 日本は「武国」か。

 武国意識の成立。「日本列島の地理上の位置が、日本の歴史に与えた影響はまことに深甚であった。」

 平安時代の、滝口。宮廷の警備兵というより、むしろ天皇個人の私的な護衛兵としての性格が強い。彼らの役割でとくに重要なのは、鳴弦。

 鳴弦とは。弓に矢をつがえず、張った弦を手で強く引いて鳴らすこと。弦打とも呼ばれる。「鳴弦」という言葉のほうが、きれいかな。王朝に見合う、優雅な行為。

 「武器に魔物を払い福を招く働きを期待する気持ちは、習俗としての道教を中国から受け入れる過程で日本に定着していった観念らしい。」、武器に、人を殺傷する以外の姿を見た、人を殺傷する以外の力を感じた、昔の日本の人びと。その目、その感性。とてもすてきだと思った。

 それにしても。わたしは日本刀より弓矢に魅力を感じると、自覚、判明。

 「へき邪としての武(「武」の発散する呪力、魔除けとしての「武」)。

 武士の、単純に戦闘力に解消できない一面、呪術的な役割。

 従来歴史研究者は、武士のこうした機能には関心を持たず、彼らを武士の範疇から事実上締め出してきた。それは、近代合理主義の陥穽であるとともに、武士政権の成立をもって歴史の前進とするという理解に立っていたから。

 そうなれば当然、天皇に密着した滝口のような存在など目にとまりにくく、同じ目線からは治天の君(院)と結びついた伊勢平氏平清盛が樹立した政権すら、脇道にそれた王朝の走狗、貴族的で未熟な政権との否定的な評価しか出てこなかった。って、これも平家をおとしめたか~。

 日本人は勇敢か。七十数年前、太平洋の島々での、日本の兵士たちの「勇敢さ」。その背後にあった、徹底的にたたきこまれた、観念。

 陸軍にあった「一銭五厘」という言葉。招集令状の葉書代。兵士の代わりなど葉書一枚ですむ。価値の低い兵隊の命。

 日本が武の国とか日本人は勇敢な民族だとか。確かめようのないプロパガンダ

 日本の武士の歴史を、今日、学ぶ、意味。

 

  「武士」と、近代の戦争における悲劇との、つながり。考えたことがなかった。知ってよかった。武士を好きと言うなら、知っておかなければならないことだった。

 

 終章の最後のくだり。3 「勇敢さ」と人命の浪費。書店で題名を見たとき、この本がこういう終わりかたをすると、思っていなかった。

 「武士」はいなくなった。だけど今も、昔と、変わっていないのかもしれない。血は流される。人は殺し合う。日本で。世界で。

 人と人が命をかけて争っている。自力救済がおこなわれている。武力で争いが解決される。殺し合いは続いている。

 武士を好きと言うなら、「武士」からそこまで、ここまで、考えなければならないのかもしれないと思った。

 

 確かに「武士の歴史」ではなく「武士の日本史」だわ。

 武士についてだけでなく、日本というこの国についても、考えて、感じて、思ったから。

 

 わたしは、今、使われる「サムライ」という言葉は、好きではない。

 なぜみんな「サムライ」という言葉が好きなのだろう。

 「武」を求めていないことは、明らかであることが、救いかなあと、最後まで偉そうに、生意気に、思ってみた。

   (2019年1月25日 第7刷発行)